91歳“伝説の国語教師”の金言 福沢諭吉の弟子も「学び直し」していた いつまでも若々しい脳を作る習慣
定年後も教壇に立ち続けた理由
1932年、弘前市生まれ。青森市で暮らしていた1945年、きむさんは青森大空襲で九死に一生を得る体験をしています。 終戦後、盛岡で木材会社を経営していた父は、雫石の社宅に家族で移住することを予定していました。しかし、弘前に住む長女の夫が亡くなったことを知った父は、長女の幼子の身を案じて家族全員を弘前へ送ったのです。 佐藤「これが私の将来につながってるわけですよね。でも、終戦後は父の商売がいろいろ駄目になったりして、学校時代は本当に貧乏だったんですよ。姉の生活の援助もしなくては駄目で、大学に行くつもりはなかったの。 高校が終わったらどこかに勤めるつもりだったのが、昭和25年、私が高校3年の6月25日……何でこういう日にちまで覚えてるかというと、この日は朝鮮戦争が始まった日なのよ。 朝鮮戦争の特需景気の風が流れ流れて私の父親の仕事にも吹いてきて、国立の弘前大学なら行ってもいいと言ってくれて」
教育学部に入ったのは学校の先生になりたいという希望があったわけではありませんでした。「教育学部は奨学金をもらいやすかったんですよ」と、きむさんは笑います。 卒業後は弘前大学教育学部附属駒越小・中学に赴任。3校あった附属校が同市学園町の弘前校に統合して以降は、1993年まで弘前大学教育学部附属中学校で教鞭をとりました。 60歳で附属学校から教育学部に移籍。1998年まで同大学教育学部助教授として国語科教育を担当、定年後も同大で5年間非常勤講師として教壇に立ちました。 佐藤「大学の人員削減で、私の定年後も後任はとらないことになっていたんです。非常勤講師は普通1コマか2コマしか持たないんだけれども、常勤と同じくらいにコマ数を持てて。研究室も私の後任がいないから空いてるわけで、研究室もそのまま使ってもいいと。 私はどうせ大学にいるんだったら、ゼミの学生もいたほうが楽しいなと思ったもので、教授に『私、指導はちゃんとしますから、先生は捺印だけしてくれませんか』とお願いしました。 通常、非常勤講師にゼミ生はいないんだけど、ちゃんとゼミ生も持てて幸運でしたね。非常勤だから会議に出なくてもいいし、教授会のときなど、他の研究室が暗いときでも私の研究室だけが明るくて、ゼミ生とにぎやかにしたものです」