1940年「スウィングの女王」に登りつめた『ブギウギ』モデル・笠置シヅ子。しかし「ぜいたくは敵だ」が叫ばれるなか、服部と笠置のコンビネーションは徐々に…
NHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』。その主人公のモデルである昭和の大スター・笠置シヅ子について、「歌が大好きな風呂屋の少女は、やがて<ブギの女王>として一世を風靡していく」と語るのは、娯楽映画研究家でオトナの歌謡曲プロデューサーの佐藤利明さん。佐藤さんいわく「日中戦争が3年目を迎えた1940年ごろ、シヅ子を取り巻く事態も徐々に悪化していった」そうで――。 【写真】「音楽の力ってすごい、と感じるようになった」と話す趣里さん * * * * * * * ◆国際情勢の緊迫 SGD(松竹楽劇団)のステージが、良い意味で「ジャズ寄り」になって、服部良一と笠置シヅ子コンビにとって、充実の日々が続いていた。 皇紀2600年の奉祝ムードに沸き立つ1940(昭和15)年、日中戦争は3年目を迎え、ますます泥沼化していた。 SGDが帝劇で公演を開始する同月、1938(昭和13)年4月1日、第一次近衛文麿内閣で「国家総動員法」が公布された。 翌1939(昭和14)年2月に発足された平沼騏一郎内閣は「官民一体ノ挙国実践運動」を打ち出し、国民に「前線の労苦を思えば」と「耐乏生活」を強いた。政府による統制経済が始まったのもこの頃からである。 さらに1939年9月1日、ナチス・ドイツのポーランド侵攻で、ヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発、国際情勢が緊迫するなか、ドイツの快進撃に倣って、日本でも強力な指導体制を形成する必要があるとする「新体制運動」が盛り上がった。 この「新体制運動」は、音楽や映画の世界にも波及して、時局に相応しくない派手な歌曲や、扇情的な流行歌は人心を乱すと、槍玉に挙げられ、検閲もますます厳しくなっていった。 そうしたなか、1940(昭和15)年7月7日には「奢侈品等製造販売制限規則」が施行された。「ぜいたく禁止令」と呼ばれた「七・七禁令」である。
◆ペニイ・セレネード 戦時下において、実用品以外の製造販売を制限した法律で、西陣織や友禅などの金銀を使う織物や、人形やレコードなどの娯楽関係品は「ぜいたく品」として槍玉に挙げられた。「ぜいたくは敵だ」「パーマネントはやめませう」のスローガンが街角に溢れ、ジャズは「退廃的な音楽」とされ始めていた。 とはいえ、この頃の東京や大阪には、まだリベラルな空気があり、都会のホワイトカラーや学生たちの趣味人は、ジャズソングを楽しみ、シヅ子のステージに喝采を送っていた。 ちょうど「七・七禁令」が施行される直前、6月20日に発売されたのが、笠置シヅ子とコロムビア・リズム・シスターズの「ペニイ・セレネード」だった。 原曲はオランダの作曲家で、バンドリーダーでもあるメル・ウエルズマが1938年に発表したタンゴのラブソングで、ジョー・ロスと彼のバンドのレコードでヒットした。 服部良一のサウンドはスローテンポのタンゴから一転して、スピーディなホット・ジャズとなる。 ギターとリズムセクションが奏でるリズムは、デューク・エリントンの「A列車で行こう」や、ハリー・ウォレンの「バッファロー行きの新婚列車」などでお馴染みの列車の進行を思わせるスタイル。 メロディは、服部がプロデュースしていたモダンなコーラスグループ、中野忠晴とコロムビア・リズム・ボーイズの「山の人気者」のような牧歌的な情景が浮かぶのんびりした味わいがある。
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