杉江松恋の新鋭作家ハンティング ボディビルディング×ミステリー小説『フェイク・マッスル』のユーモア
読み始めてすぐに、これはいけるな、と思える小説だった。 そんなわけで日野瑛太郎のデビュー作『フェイク・マッスル』(講談社)を、初めから書評をするつもりで読んだ。プロットなどの構造や、用語や会話のリズムなど使われている小説の部品に気をつけながら読んだということである。ページをめくるほどに安心感が増してくる。 『フェイク・マッスル』は、今回で第70回を迎えたミステリー登龍門の老舗・江戸川乱歩賞を霜月流『遊廓島心中譚』と共に受賞した。二作受賞の場合は同時に刊行されるのが慣例だが、『遊廓島心中譚』は大幅な改稿を前提に授賞が認められたとのことで、やや遅れるようだ。同作は題名から察せられるとおり、特殊な状況設定が用いられているようである。では『フェイク・マッスル』はどうかというと、これも題名通り筋肉の話なのだ。ボディビルディングに絡む謎が物語の中核にある。 『週刊鶏鳴』編集部で使えない新入社員との烙印を押された松村健太郎は、ある日秘密の任務を命じられる。男性アイドルグループのメンバー大峰颯太が、ボディビル大会に出場して見事3位入賞を果たした。彼の筋肉増量に関して疑惑が囁かれているのである。大会の3ヶ月前までの彼は、筋肉美とは程遠い体型であった。わずかな期間で入賞できるほどの増量が可能であろうか。アナボリック・ステロイドなどの薬物を用いたのではなかろうか。大峰は、自身のプロデュースによるトレーニングジムを開設する予定だという。薬物を用いたトレーニングで筋肉をつけた者が、そうした経営に携わるのはいかがなものか。 松村に課せられた使命は、そのトレーニング・ジム「マッスルファクトリー」に入会し、大峰がステロイドを使用しているという証拠を掴むことだ。もしスクープをものにできたら、松村が入社時より希望している文芸編集部への異動も考えてもらえるという。飴と鞭をちらつかされて「マッスルファクトリー」にやってきた松村だが、困ったことになった。大峰の尻尾を掴むためには彼に接近して個人指導を受ける必要がある。だが、ミーハーなファンの接近を防ぐためか、ジムは制限を設けていた。ベンチプレスで80kgを上げられた者だけが中級者と認められ、大峰に会うことができるというのだ。松村は根っからの文化系で、ジム通いの経験などもちろんない。ひょろひょろのもやし男は果たして80kgを上げることができるのだろうか。 ご覧いただいた通り、物語の謎はごくシンプルなものである。人はわずか3ヶ月でムキムキになれるのか。序盤でハルク高橋というボディビルダーが登場して説明してくれるとおり無理、薬物使用しかありえない、というのが常識的な解答だ。ミステリーとしてはその抜け道を探すことになる。つまり不可能状況というわけである。これが第一の読みどころ。 松村は「マッスルファクトリー」において週刊誌記者という身分を隠しながら大峰の身辺を調べていくことになる。ジャンルでいえば、潜入捜査ものということになるだろう。警察官が反社会団体に潜り込む深町秋生『ヘル・ドッグス 地獄の犬たち』(角川文庫)などの優れた先行作がある。最近話題になった作品は安壇美緒『ラブカは静かに弓を持つ』(集英社)で、これは音楽教室に著作権管理団体の職員が受講者として入会することから始まる小説だった。 潜入調査は欺瞞を伴うものなので裏切りの物語となる。つまり悲劇の予感と共に話は進行していくのだが、『フェイク・マッスル』はちょっと風合いが異なる。松村は社会人としてはやや未熟なところもあるが、与えられた課題にはのめりこんでいく性質だ。初めは嫌々取り組んだ潜入取材にも次第に熱中するようになる。何よりもトレーニングには、ジムに行かない日があると物足りなくなる、というぐらいにはまるのである。その前のめりさゆえに、しばしば周囲とは波長が合わない行動をとることになる。そのオフビートさが、企まざる笑いを誘発するのである。 大峰が薬物を使用している証拠を掴もうとして、彼の尿を手に入れる手段を考えるくだりなど、くすくす笑わずには読めない箇所だろう。このユーモアが第二の読みどころだ。江戸川乱歩賞はどちらかというと真面目な新人賞で、笑える作品が受賞したことがほとんどない。70年近い歴史の中で、これはユーモアミステリーだ、と言える作品は五指にも満たないのではないだろうか。選評を読むと日野が過去に同賞へ応募した作品はユーモアを感じさせるものではなかったらしい。つまり、本作では自然にその要素が生じてきたということだ。ユーモアのセンスが滲み出るというのは、創作者として洗練された証拠だ。最初に書いた安心して読める感じというのはこれで、特にふざけているわけでもないのにずっと面白い雰囲気が続くというのは頼もしいことだと思う。才能ある書き手、と言って差し支えないだろう。 もちろんミステリーとしての構造もおろそかにはしておらず、ちゃんと論理的に話は進んでいく。最初に挙げた不可能状況の謎解きも、なるほどという解答が与えられる。松村はきちんと段階を経て真相に到達するし、リアリティを無視したご都合主義の展開、偶然の要素に頼ったり、キャラクターが不自然な行動をとることで話が動いたり、ということもない。唯一注文を付けるとすれば、松村がほとんど失敗をしないことか。いくらなんでも初心者にそれは無理だろう、という場面が二ヶ所ある。そこで失敗して主人公が慌てることでさらに笑いが生まれるはずなのである。選考委員の東野圭吾が「この手のエンタテインメント作品は、これでもかというほど粘っこく、しかも続けざまにネタを投入していく必要がある」と指摘している点に同意する。応募作では分量上限もあっただろうから、これからの課題としてもらいたい。 今回の乱歩賞は、節目の年ということで選考委員も豪華であった。綾辻行人、有栖川有栖、真保裕一、辻村深月、貫井徳郎、東野圭吾、湊かなえという面々が選考に臨み、大多数の賛同を得てこの作品が受賞したのである。祝福されたデビュー作だ。その期待に応えてくれることを切に望む。さらに密度の高いエンタテインメントを。
杉江松恋