<京都・センバツ初出場物語>/4 京都二中(第19回・1947年) 鳥羽(第72回・2000年)/上 /京都
◇初代王者、甲子園で初試合 1915(大正4)年に開催された第1回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園の前身)で優勝し、球史に不滅の足跡をしるした京都二中(現鳥羽)が初めてセンバツの舞台に登場したのは、戦後初開催となった47年の第19回だった。 京都二中は第2回夏の全国大会に出場し、第4回も予選を勝ち抜いたが、米騒動で大会が無念の中止。その後は商業学校や私立の台頭もあり、全国の舞台からは遠ざかった。 しかし、戦後初となった46年夏の全国大会に「復活」出場。「(戦時下の42年)野球部解散時に余った部費をすべてボールとバットに代えてくれていたおかげで、十分な練習ができた」というエース田丸が、地方大会から全11試合を投げ抜いて準優勝を果たした。 翌春も、田丸の後を継いだエース上田を擁する好チームだった。大会第2日、3月31日の慶応普通部との1回戦が、実は京都二中にとって24年開場の甲子園球場(兵庫県西宮市)での初試合だった。46年夏は米軍に接収されていたため、西宮球場(同市)での開催だったのだ。試合は息詰まる投手戦となり、0―1で惜敗。京都二中は48年の学制改革で、進駐軍京都軍政部の圧力もあって新制の京都市立洛南中に校地を引き渡し、廃校に。これを唯一で最後のセンバツとして、栄光の歴史は幕を下ろしたかに思われた。【矢倉健次】=随時掲載