プロレスに“市民権”。元横綱・輪島さんはスポーツ報道のあり方を変えた
大相撲にひとつの時代を築いた大横綱が、この世を去った。第54代横綱の輪島大士さん(本名・輪島博)の逝去が明らかになった。数年前から咽頭がんを患っていたという。まだ70歳だった。 輪島さんは、1948年1月11日石川県七尾市に生まれ、高校から相撲を始めると日大へ進み2年連続の学生横綱に輝くなど14のタイトルを獲得。鳴り物入りで1970年に花籠部屋に入門すると、初土俵から1年で新入幕、2年で大関に昇進、1973年の5月場所で全勝優勝し初土俵から3年で横綱へスピード出世した。憎いほど強かった故・北の湖と、幾度も名勝負、優勝争いを繰り広げて「輪湖(りんこ)時代」と評された。 優勝回数は14回を数えた。 サンケイスポーツの相撲担当記者として入門当時から故・輪島さんを取材してきた武田吉夫さんは、「天才。異能の力士だった」と言う。 「とにかく稽古が嫌いでね。四股や鉄砲などの基礎や、3番稽古、ぶつかり稽古などもあまりしなかった。今でいう合理的だったんだろう。当時は、腰が軽くなるとタブー視されていたランニングを取り入れていた」 稽古のことを練習と呼び、まわしに鉄アレイを結びつけてランニング。負荷をかけて下半身を鍛えた。 だが、何もせずとも勝てる。稽古は熱心ではなかった。 ある日、武田さんが、花籠部屋の朝稽古をのぞいたら、雲ひとつない快晴だったなのに、花籠親方が傘をさして入り口付近をウロウロしていたという。 「どうしたんですか? 雨なんか降っていないですよ」 「いや、雨が降るぞ。輪島が熱心に稽古してんだ」 嘘のような実話だそうだ。 「黄金の左」と呼ばれた左の下手投げが武器だった。左でまわしを取られたら万事休す。だが、武田さんは「右も強かった。右のおっつけから相手の体を起こしてから、左下手をとってひっくり返す。右のおっつけがあってこその左下手だった」という。 その「天才的な相撲」を可能にしたのは、あんこ型ではなく、肩幅が異常に広く、猫背のように前にせりだし、まるで欧米の格闘家のような筋肉質の肉体にあった。全盛期は186センチの130キロ前後。 「仁王立ちという言葉ピッタリの体格だった」 すべてにおいて規格外。相撲界の常識を次々と打ち破った。四股名は本名。親方は横綱に昇進した際、幻とも言える四股名を用意していたそうだが、生まれ故郷の輪島を大事にしたかったのか、本名を貫いた。後にも先にもそんな横綱はいない。まわしは金色。今でこそカラーまわしは珍しくないが、当時は、黒か紫紺と内規で決まっていた。だが、横綱の輪島が金色のまわしを用意すると誰も文句は言えなかったという。 憎めぬ天然だった。喫茶店が好きで、朝稽古の後は、記者を集めて馬鹿話に花が咲いた。 日大の入学テストでは「わじま・ひろし」と名前を漢字で書かずに平仮名で書いた。 当時、花籠部屋は、日大の合宿所兼土俵の隣にあり、学生時代から、行き来していて、仲の良かった先代の貴ノ花に学生時代にもう勝っていたという逸話もあるが、花籠部屋に入門後も、そのまま日大の合宿所で寝泊りしていた。 ある日、その合宿所の一階にあった赤電話に付き人から電話がかかってきて「もう小銭がないので切れます」と告げられると「大丈夫、おれが持っているから、こっちで入れるから」と受信側の赤電話に真顔で小銭を入れていたという。 その後、どこから手に入れたのか、いくら使っても減らない違法のテレホンカードを何枚も持っていて新幹線から長時間の電話をかけても電話が切れることはなかった。 そういう、どこか世間知らずの部分が、金銭面でのルーズさにもつながったのだろう。