プロレスに“市民権”。元横綱・輪島さんはスポーツ報道のあり方を変えた
プロレスに“市民権”を与えた
車好きで1千万円以上のキャッシュで高級外車「リンカーン」をポンと買う。賞金を残さず使い、翌年の税金が払えなくなって、賞金から税金を事前に協会側がとっておくという現行の制度が生まれることになった。 引退後、花籠部屋を継いだが、年寄株を担保に入れて金を借り、それが大問題となって、結局、廃業となり花籠部屋も消滅した。 借金返済をしなければならない事情もあって輪島さんは、天龍や石川孝志ら角界出身者が多くいた全日本プロレスの故・ジャイアント馬場さんにプロレス転向を懇願。当時、馬場さんは、プロレス転向にアメリカでの半年以上の修行などの厳しい条件を突きつけていたとされる。 引退してから5年が経過していた。もう38歳。筋肉は削げ落ち、相撲時代に痛めた古傷で体もボロボロ。体重は90キロしかなかった。 1986年4月13日に馬場さんの常宿だったキャピトル東急ホテルで輪島さんの入団会見が行われた。元横綱の初のプロレス転向を一般紙もこぞって報道した。 そこからハワイ、アメリカで体を鍛え直しプロレスの技を叩き込まれる“地獄の日々”が始まるのだが、真っ黒に日焼けした輪島さんの体は見事にビルドアップされ、相撲の「ノド輪」をプロレス技に改良した「ゴールデン・アームボンバー」や「相撲タックル」などの必殺技も身につけて凱旋帰国した。その年の11月1日に生まれ故郷の石川県七尾市総合体育館で、“インドの狂虎”と呼ばれた人気悪役レスラー、タイガー・ジェット・シンを相手に国内デビュー戦。試合は、5分55秒、両者反則で終わったものの、視聴率は20パーセントを超え、当時、まだ本格的にプロレスを扱っていなかったサンケイスポーツも、東西が1面で、この試合を報じた。 「横綱輪島の名前だね。実は、今では報道も当たり前になったプロレスをスポーツ新聞が取り上げはじめたのは、輪島のプロレス転向からだった。それまで夕刊紙や一部のスポーツ紙以外は、プロレスをプロスポーツと認めずに取り上げてこなかったが、輪島の転向で話題になるものだから、もう無視できなくなった」(武田さん) アントニオ猪木vsモハメド・アリなど、社会性があり、ショーではない真剣勝負のみしか報道してこなかったスポーツ紙が本格的にプロレス報道を解禁した。 スポーツ報道のあり方を変え、プロレスに“市民権”を与えたのは、実は輪島さんだったのである。 だが、輪島さんのプロレスラー生活は、まるで嵐のように過ぎ去り、たった2年で引退した。 故障などの肉体的な限界が原因とされているが、引退した輪島さんは、その後、タレントとして活躍。「ワジー」と呼ばれて人気を博し、晩年は、アメリカンフットボールのチームの総監督を務めたりもしていた。 「性格は繊細だった。天才だったゆえにどこか暗さも兼ね備えていて、それが、お金も問題になったのかもしれないね」 武田さんが、故・輪島さんと、最後に会ったのは、何年も前の甲子園ボウル。再会を懐かしんで握り合った、その手は心なしか小さく感じたという。 「輪島の土俵入りは美しかった。力強い雲竜型でね。上体に力がみなぎって、せりあがってくるところになんとも言えない迫力があった」 歴史に名を刻んだ“昭和の大横綱”……。その功績と伝説は永遠に語り継がれる。