倉本一宏さん 「お前らにできるわけがない」……歴史学の大家である恩師が40年前に語った遺言とは
平安時代史の専門家として、影響を受けた一冊に東京大在学中の恩師による概説書を挙げた。高度成長期の1965~67年にベストセラーとなった中央公論社「日本の歴史(全26巻)」の中の一冊だ。
著者の土田直鎮(なおしげ)さん(1924~93年)は、東大史料編纂(へんさん)所で長く平安時代の史料の編纂や刊行に携わった後、教授となった。「立派な学者は本を書かないことが良しとされた時代。土田先生は本はおろか、論文もめったに書かない学者として有名だった」
当時の学界からも驚かれたはずの一般書は、平安時代史研究の金字塔だ。紫式部や藤原道長が生きた平安中期を巡り、天皇を取り巻く公卿の仕事や出世競争、衣食住から儀式まで豊富な史料をもとに活写した。道長の傀儡(かいらい)と見られがちな一条天皇を、多彩な人材を輩出した〈英明の天子〉とし、その時代を〈日本の宮廷生活の完成した姿〉と位置づける。
「古記録こそ正しい歴史。歴史物語は創作で、古記録を扱えるかが歴史研究におけるアマチュアとプロの『差』だ」。東大の学生時代、教授だった土田さんからは歴史研究の心得を諭された。ただ本書に限っては、古記録だけでなく、あえて「栄花物語」や「大鏡」などの歴史物語に基づいた叙述も見られる。
当時は一次史料に触れられるのは、一部の専門家に限られていた。「土田先生の教えからすると異例の本だが、大正生まれの知識人として、一般の人には分かりやすく伝えなければという責任感があったのでしょう」
同書の文庫版で、倉本さんは解説を執筆。東京・西新宿で3次会まで続いた80年の研究室の進学生歓迎会の思い出を振り返った。参加者は3人。1人は酔い潰れて床で寝ていたが、「これから遺言を授ける。俺が死んだらこれを研究室に貼っておけ」と言って次の言葉を語った。