【思い出の安田記念】騎手・田中勝春がヤマニンゼファーでGⅠ初制覇 平坦ではなかった道のり/1992年
今週末はGⅠ安田記念が行われる。東京競馬場のマイルを舞台にしたこのレースで、自身初のGⅠ制覇を果たしたのが、騎手時代の田中勝春技術調教師。1992年のヤマニンゼファーでの話だった。 田中勝春調教師といえば、いつも笑顔の明るいキャラクターを思い浮かべるファンも多いだろう。また、そんな性格の良さだけでなく、2007年にはヴィクトリーでGⅠ皐月賞、シャドウゲイトで海の向こうのシンガポール航空国際カップ(当時GⅠ)をそれぞれ優勝。35年間の騎手人生で積み重ねた勝利数は実に1812。これは、ムチを置いた時点で歴代12位という勝利数で、間違いなく名手の一人だった。 さて、そんな田中勝春調教師だが、実は騎手人生の船出は決して順調ではなかった。いや、それどころかドン底からのスタートだったのだ。 彼が騎手デビューしたのは1989年、デビューから約1か月が過ぎた4月2日の競馬を終えた翌朝、体に異変が起きた。朝、目覚めたのは良いが、体がピクリとも動かなかったのだ。病院に救急搬送された結果、バセドウ病と診断。急な環境の変化から来るストレスが原因だった。 そのため、自然に囲まれた地へ移動するなど、時間をかけてリハビリした。 「なかなか復帰のメドが立ちませんでした。周囲では『これでは復帰したところで馬に乗るのは無理だろう』と引退勧告を促そうとする動きもあったみたいです」 田中勝春調教師はそう述懐し、さらに続けた。 「そんな時、師匠の藤原敏文調教師(故人)が、その動きに『待った』をかけてくれたと、後に聞きました」 〝何があっても自分が責任を取るから〟と尽力してくれたそうで、そのおかげもあり、約半年後に無事復帰すると、その後は冒頭で記したような大活躍。昨秋、ついに調教師試験に合格し、新たなホースマン人生を歩むことになったのだ。 もし、あの時、藤原敏文調教師が動いていなければ、彼は全く別の人生を歩んでいたかもしれない。師匠によってつながれたホースマン人生の新たな章は果たしてどのような展開を見せるのか。来年の開業が心待ちにされる。(平松さとし)
東スポ競馬編集部