卓球・日学連新会長はプロ経営者 菱洋エレクトロ社長 中村守孝氏インタビュー【前編】
改革のシンボルとしての卓球応援
――その後、社内に何か変化はありました? 中村守孝社長:アンケートを取るわけでもないのでわかりませんが、こういうことは信じ続けて発信することが大事です。 私のひと声で、社報も作りました。もちろん卓球関連の記事も載ります。 朝出社すると、3ヶ月に1回社報がおいてあれば、どんな人でも見ますよ。その中にひとり自分が知っている人が載っていた、それで良いと思ってるんです。そういうことが全く無い会社だったので。私が前にいた会社、伊勢丹とは真逆の風土です。 中村守孝社長:それまでの弊社は、広告宣伝費ゼロ、すべてにおいて内向き、目立つことを好まず悪とする、従業員の給料も増やさない、という会社でした。まさしく疲弊しきっていましたね。 それをこの6年間従業員と協働して変えてきたなかで、ひとつのシンボリックなものとして卓球への応援ということがあったのかもしれない。 ――これから変えていくんだという宣言でもあったと。 中村守孝社長:結局5年くらいかかりましたが、その改革で利益も大きく増え、従業員のボーナスが3倍近くになり、株価も倍になりました。
オリンピック博士と呼ばれて
――中村社長ご自身に卓球経験はあるんですか。 中村守孝社長:桐朋という、当時東京でそれなりに強い中学・高校でやってました。私も中学時代には東京都大会の地区予選で優勝するようなことはありましたが、でも関東大会やまして全国大会には全く手が届かなかったですね。 毎日卓球ばっかりで、休みの日も(明治大学卓球部の拠点であった)平沼園に練習に行ったり。当時私が中学生で、大学生だった前原正浩さんと試合して、コテンパンにされました。先日お目にかかりましたが、全くご記憶にはなかったようで(笑)。 大学は慶応に行き、卓球は高校で辞めましたが、ずっと好きでしたね、卓球は。 ――引退した後も、ずっと卓球を見続けたんですか。 中村守孝社長:ええ。だから、いま卓球界の諸先輩方と溶け込むのも早いですよ、何も仕込まなくても頭の中に入ってますから。先月も学連の場で、1975年のカルカッタ世界選手権準決勝の話を差し上げたら高島規郎さんご本人が驚いてましたよ(笑)。 また前職の人事部長時代に高松三越へ出張した際に、大学の先輩でもある德永尚子さん(旧姓深津、1965年世界チャンピオン)が女将をされている料亭を突撃訪問したりもしました。 ――競技を辞めても、ずっと興味を失わなかったんですね。 中村守孝社長:スポーツとしての魅力と、そこで活躍するアスリートに対する敬意は、卓球に限らず、ずっと持っていたからでしょうね。 私の場合小学生から中学生にかけて“オリンピック博士”と呼ばれるほど、ずっとスポーツ全般を見るのが好きだったものですから。大学卒業後はスポーツ新聞の記者になりたかったくらいです。