原点回帰で次世代への糸口を 通天閣・西上雅章社長に聞く
通天閣の危機に立ち上がった父たち・自らも社長に
当時の通天閣は、その眺望が売りで開業時には1か月で20万人の来場者が。そして翌年には100万人を超えるなどにぎわいを見せていた。しかし、10年ほどたつと業績は悪化。1974年ごろは、光化学スモッグなどの影響で自慢の眺望がかすみ、入場者が20万人を切るまでに落ち込んだ。重ねてオイルショックの影響でネオン消灯を余儀なくされ累積赤字もあり、窮地に陥っていた。だが、それを救ったのが、父親の一さんら、地元、新世界の人たちだった。 「通天閣の危機を知って、地元の人たちが立ち上がったんです。私の父親も食堂店主でしたが地元の連合会の会長で、みんなでなけなしのお金を集めて、傾いていた通天閣を元に戻そうと必死でした」。地元の人たちがお金を出し合い、再建に向け血のにじむような努力をしたおかげで、株を買い戻せたという。そして、後に一さんが社長に就任した。 その後、通天閣は様々な改革を行い、人気ドラマに登場するなどし再び人気スポットへ。雅章さんは87年に通天閣観光へ取締役で入社。03年から社長に就任した。就任後は業績を伸ばし、役員の若返りや地下の改装などを目標に掲げていた。
「眺望」をウリにするという役目はもう終わった
時は流れ、周囲に高層ビルなどが建ち「『眺望』をウリにするという役目はもう終わった」と話し、エンターテイメント性の高い塔へ変えるため様々なアイデアを建物内に取り入れた。 一部の例をあげると、改装時に自身が映画「ローマの休日」が好きだったことから、スペースにバイク(べスパ)を置きコインを投げる噴水の絵を描いたり。展望台を金ピカにしたり。3代目ビリケンを作る時は「アメリカ生まれやから」という理由で、髪の毛を金髪にするなど...様々なアイデアを実行した。 その結果「通天閣がオモロくなってる」と噂は広まり、観光客が集まるにぎやかな場所へと変わっていった。そして、現在は年間入場者数130万人を記録するなど、文字通り「大阪のシンボル」となっている。