祈りと歌と食でつながる、東京の一角にあるエチオピア正教会
<起源を4世紀にまでさかのぼる、古い歴史を持つエチオピア正教会。日本でも同教会の信者が毎週末、集会を開いている。『アステイオン』99号より転載>【川瀬 慈(国立民族学博物館 学術資源研究開発センター教授)】
近年施行された改正出入国管理法による外国人の在留資格の拡大を踏まえ、外国からの労働者受け入れが、人手不足が深刻な職業分野を中心に加速していくことが予想される。この動きに呼応するかのように、偏狭な移民排斥主義やナショナリズムが社会のあちこちに跋扈(ばっこ)しつつもある。 【写真】東京のエチオピア正教会集会での説法 高齢化や人口減少に伴う労働力不足を解決するために活用する「外国人材」という視点ではなく、日本社会を、創造的かつ、豊かに読み替えていく主体としての移民に目を向け、歩み寄り、そこから日本における「多文化共生」の未来を考えていくことは可能だろうか。 ■葛飾のエチオピア 私は2001年より、エチオピア連邦民主共和国において、世襲の音楽職能集団を対象とした映像人類学研究を行ってきた。様々な儀礼や生業の場において、人々との濃厚なやりとりに基づき、歌を通して世界を異化していく音楽集団のしたたかさ、しなやかさに魅了され、その様子を映像民族誌におさめ、学術映画祭等の場で発表してきた。 パンデミック期間、エチオピアへの渡航を控えていた時期はあったものの、現在に至るまで、年に数回はエチオピアに通いフィールドワークや映像制作を継続している。 そんななか、東京都葛飾区及び、墨田区界隈に、エチオピア移民が200人近く居住していること、さらに2009年から、この地域で日本で唯一のエチオピア正教会集会が行われていることを在日エチオピア大使館の職員を通して知った。 エチオピア正教会は、その起源を4世紀にまでさかのぼり、聖母マリアを信仰の基軸とする歴史の古い教派だ。1970年代前半まで続いたエチオピア帝国時代においては国教であり、今日もエチオピア北部を中心に人口の半分近くの信者が存在し、庶民の生活や思考様式に極めて大きな影響を持つ。 葛飾区ではまた、エチオピア新年(エチオピアは独自の暦を持ち新年は9月)や祭日などに、NPO法人アデイアベバ・エチオピア協会主催による地域住民とエチオピア移民の交流会も盛んに行われている。 ■正教会集会 正教会集会は週末、葛飾区や墨田区のコミュニティセンター、個人住宅、あるいは工場等を借りて行われる。参加者は毎回、30人から40人程の在日エチオピア人である。 朝7時半にアムハラ語聖書の朗読からスタートする集会は午前10時近くになると盛り上がってくる。男女が向かいあい、讃美歌メズムルを歌い始めるのだ。 毎回ソロのパートを見事に斉唱する女性、アステルは横浜市内からやってくる。彼女は普段、フランス人家庭の家政婦をやっている。 儀礼全体の進行を司る中年男性アブレさんは陸上選手として来日したが、怪我で競技を断念し、現在は板金工場で働く。 その他、廃油再生処理工場や自動車工場の労働者、介護職関係者、飲食店のウェイターもいる。在日エチオピア大使館の職員も数人いる。さらに関東の大学院に所属する留学生も参加している。 会の後半、歌い手たちは儀礼用の木製の杖、さらにツェナツルと呼ばれる金属製の楽器を持つ。この楽器を左右に揺らしてシャリン、シャリンと小気味よいリズムを刻み、杖の先で床を打ちつける。これは、鞭打たれるイエス・キリストの姿を象徴的に表現する。 さらに、ツェナツルの左右の揺れと太鼓のビートは、群衆から打たれ、よろめきながらもゴルゴタの丘にむかい歩みをすすめるイエス・キリストの姿を表すのだそうだ。 聖書の朗誦、説法、讃美歌の歌唱が休憩をはさまずに延々と続く。参加者の歌声が重なりうねり、会場は熱気に包まれる。 すると司会のアブレさんが必ず、「周りは住宅街なので、あまり大きな声で騒がぬように」と参加者に注意する。司会者としての彼の一挙一動に近隣住民、ひいてはホスト社会への過剰なまでの配慮がみられる。 正午を過ぎ、儀礼がひと段落すると、エチオピアの主食、インジェラ(テフというイネ科の穀物でできた灰色のパン)にたっぷり、おかずの肉類がのせられた皿が参加者にふるまわれる。 日本では入手不可能なエチオピアのスパイス等を自宅からそれぞれ少しずつ持参し、会場で料理をこしらえるのだ。数人で円になり、羊肉や鶏肉を手でインジェラに包んで頬張る。厳粛な儀礼を終え、故郷の味に舌鼓を打つ参加者たちのこぼれそうな笑みが目に焼き付く。 ■なじみある異郷と 日本社会の橋渡し 葛飾、墨田区界隈のエチオピア移民の例をあげるまでもないが、ここ日本においても、欧米ほどではないにせよ、世界の様々な場所、文化にルーツをもつ人々が社会空間を主体的かつ柔軟に読み替え、集い、つながり、困難を抱えながら生きてきた歴史がある。 だがしかし、日本にとってアフリカからやってきた隣人は遠い存在であったことは否めない。東京の一角にある祈り、食を介した、エチオピア人たちのつながりの場。 そこから「日本社会」を逆照射し、相対化し、考えること。そして、ゆっくり時間をかけて、私にとってなじみある異郷と日本社会の橋渡しを、エチオピアに通って得てきた自身の知見や映像人類学の研究手法を活かしながら試みていくことは、重要なチャレンジなのではないかと考えている。
川瀬 慈(国立民族学博物館 学術資源研究開発センター教授)