「1機撃墜500ドル」で戦争を請け負った「空の傭兵部隊」のすご腕ボス
当初の契約期間はわずか3カ月で、報酬は月額1000ドル。中国空軍の施設や訓練所を査察したシェンノートが、国民航空党委員会の秘書長だった宋美齢(そうびれい・蒋介石夫人)に提出した報告書は、およそ否定的なものだったが、それがかえって彼を顧問の座に留まらせることとなる。首席航空顧問に任命され、中国空軍パイロットの訓練を支援する一方、自らも米国製カーチスH-75戦闘機に搭乗して偵察任務に従事する。日本軍が航空優勢を確保し、新首都となった重慶に大規模な空襲を仕掛けてくるに至って、シェンノートは蒋介石の密命を受けて米国に旅立つ。航空機の供給とパイロットの派遣を要請するためだ。 そんな余裕はないと消極的な政府首脳が多数を占める中、ついにフランクリン・D・ローズヴェルト大統領の承認を得て、カーチスP-40戦闘機100機の調達に成功する。しかし航空機以上に困難を極めたのが、パイロットの確保だった。大統領令により陸海軍パイロットの募集は可能となったものの、当時中立国だったアメリカは、表立って一方の交戦国である中華民国に兵員を派遣することは難しい。 そこで「中央航空機製造会社(CAMCO)」なる民間企業を隠れみのにして航空機を供給。パイロットは航空機の組み立て、修理、整備要員として派遣するという奇策に出た。米国内の基地を巡って募兵を行い、契約に応じた者には高額の報酬と、空中戦での撃墜、地上撃破を問わず「1機500ドルのボーナス」が約束された。その結果、操縦士と整備員合わせておよそ300名の空の傭兵部隊「フライング・タイガース」が誕生する。
アメリカ陸軍に正式に編入
1941年12月、第1アメリカ義勇兵団(「フライング・タイガース」の正式名称)は、中国雲南(うんなん)省の昆明(こんめい)とビルマ(現ミャンマー)の首都ラングーン(現ヤンゴン)に展開。いわゆる「援蒋ルート」に攻撃を仕掛けてくる日本軍と対決。ラングーン上空の初戦では戦爆連合編隊を迎撃し、日本軍をさんざんに悩ませる。 翌年、「フライング・タイガース」は正式にアメリカ陸軍航空軍に編入され、シェンノート自身も少佐の階級で軍に復帰。1年のうちに少将まで昇進して、第14航空軍司令官に。しかし、もともと軍隊組織に適応できず退役した過去を持つ彼は、またも中国・ビルマ・インド方面の司令官であるジョゼフ・スティルウェル陸軍中将と対立。戦場を去ることとなった。