「…いい顔になる」2005年にAKBブームを予見した超おたくとは。「これからは最大公約数ではなく最小公倍数の時代」と語った秋元康の真意
「……いい顔になる」AKBブームを予見した超おたく
「中森さん!」と声をかけられる。同世代のアイドル系ライター、O氏だ。「ちょっと話そうか?」と近場のカフェにご一緒した。 O氏が編集長を務めるミニコミ雑誌を初めて見た時の驚きを、どう伝えたらいいだろう? ページを開くと細かな文字でびっしりと女の子の名前が並んでいる。全国各地のミュージックスクールの発表会に出かけていった記録だ。そこで見たアイドル志望の少女たち、何百人もの採点リストなのだ!! これには仰天した。 まだデビュー前、アマチュア時代の幼い後藤真希や小柳ゆきの写真が載っていたりする。さらには椎名林檎が椎名林檎になる前、16歳時の本名でのイラスト入りエッセイが連載されてもいた!! すごい。異様な熱度のアイドルマニア、O氏は超おたくなのだ。 「秋元さんがアイドルの世界に帰ってきたのはうれしいけれど、いったい、どうするつもりなんだろうね? こういう時期だし、すぐに火はつかないでしょ。テレビを中心に活動しない。毎日ライブをやるっていうけど、相当な資金を食うと思う。大丈夫かな? いつまで保つか……」 そんな疑念を口にした。O氏は神妙な表情をしている。やがて、ぽつりと呟いた。 「……いい顔になる」 えっ? 何を言っているのだろう。さっぱり意味がわからない。 「あの娘たち、みんなどんどんいい顔になるよ!」 きっぱりとそう言ってのけると、O氏は満面の笑みを浮かべた。唖然とする。 翌日、彼は劇場へと駆けつけ、件のアイドルグループの正式デビューに立ち会った。観客は、たった7人だったという。 2005年12月8日のこと。AKB48の初ライブである。 O氏のような本物のアイドルおたくと、所詮はアイドル評論家の私との相違があらわになった一幕であった。
Perfumeにも最初はみんなぽかんだった
21世紀最初の10年、いわゆるゼロ年代に女性アイドルはパッとしなかった。それでも07年4月、私は初の評論集『アイドルにっぽん』を上梓している。反応は冷ややかなものだった。「アイドル評論? ぷっ、何それ(笑)」といった調子だ。しかし、この本は一部の若い層にひときわの熱度をもって読まれた。 『アイドルにっぽん』の終章に、私はPerfumeの『コンピューターシティ』をBGMとして記した。当時、仕事場でPerfumeの楽曲をガンガンに流していたのだ。 ある日、若い女性アーティストらの個展に招かれた。恵比寿のギャラリーだ。小さなスペースに女の子たちの写真やイラストやオブジェが展示されている。私は持参したCDを流してもらった。テクノ音が鳴り響いて、ボコーダーで変換された少女アイドルの歌声が聴こえる。みんな、ぽかんとしていた。 「あっ、Perfumeだ! わたし、大好きっ!!」 たった一人だけ、反応した女子がいる。東京藝術大学を出たばかりだという彼女は、パッと瞳を輝かせ、Perfumeの『チョコレイト・ディスコ』に乗って踊っていた。 もふくちゃん、こと福嶋麻衣子さんだ。そう、後に秋葉原の〝萌え社長〟として名を馳せ、でんぱ組.incのプロデューサーとなる。 08年1月、10歳下のライターの強い誘いでSHIBUYA-AXホールへ行った。AKB48の第1回リクエストアワー公演である。異様な盛り上がりだった。デビューから2年、こんなにもファンを獲得していたのか!? 率直な驚きだった。 Perfume、AKB48、そして、ももいろクローバー(Z)が続く。ゼロ年代後半の胎動を経て、一気にアイドルが息を吹き返した。2010年になる頃には〝アイドル戦国時代〟とも称される。 女子アイドルグループが次々と名乗りを上げ、何しろ数が多い。大手芸能プロダクションに所属しない、いわゆる地下アイドル、インディーズアイドル、さらには全国各地で独自の活動を展開する地元アイドル、ご当地アイドルらが大量に輩出した。一説にその数、1万人以上(!)とも言われる。日本のアイドル史上、空前の事態、熱い盛り上がりともなった。