<挑戦の春・’21センバツ専大松戸>第3部 監督とコーチ/上 過程重視の指導方針 人生の道しるべ、野球通し /千葉
専大松戸の持丸修一監督(72)は、コーチ時代を含めてこれまで約50年、高校球児を指導してきた。その年月を振り返り、こう話す。「多くの教え子が会いに来てくれる。それが一番うれしい」 茨城県出身。同県の竜ケ崎一、藤代、常総学院の三つの高校の野球部で監督を務めた。母校でもある竜ケ崎一では1990年と91年の夏の甲子園に出場した。藤代では2001年のセンバツ初出場にチームを導き、03年春にも出場した。 常総学院には故・木内幸男元監督の後任として03年9月に就任。05年のセンバツ、06年、07年の夏の甲子園に出場している。15年には専大松戸の夏の甲子園初出場を実現した。今回のセンバツを合わせると、四つの高校で9回の出場になる。 専大松戸の監督になったのは08年。富山尚徳理事長から監督就任の依頼を受けたという。「甲子園に出場すること以上に、野球を通じて将来必要なものを学生に教えてほしいという要請だった」。持丸監督はそう振り返る。試合での勝ち負けより、目標に向かう過程を重視する考えは自身の指導方針とも一致する。専大松戸の監督を引き受けた理由だ。 当時、専大松戸は県内の3大会で連続して初戦敗退していた。部員たちは「公式戦で勝ちたい」との思いを持丸監督に伝えた。そこで始めたのは、技術の基本を鍛え直すことだった。キャッチボールやバントの練習だけでその日の練習が終わることもあった。基本的な技術とあわせて、「目標に向かって自分で考え、努力することの大切さ」も教えた。それは「高校野球を通して、人生の道しるべとなるものをつかんでほしい」という考えからだという。 公式戦1勝のため練習に打ち込んだ野球部は、その年の夏、目標の県大会1勝を達成。さらに勝ち進むことが次の目標になった。茨城で三つの高校を甲子園に導いた名監督の指導を受けようと、甲子園を目指す生徒が入部するようになった。 監督就任から7年がたった15年のチームを、持丸監督はこう振り返る。「監督に対して積極的に意思を伝える部員がたくさんいた」。試合中も、選手は監督に自らのプレーを提案した。監督は選手の意思に任せて試合を進めた。この年の夏、県大会決勝で習志野を破り、甲子園初出場を決めた。 「みんなの甲子園にしたい」。持丸監督がたびたび口にする言葉だ。先輩の姿を後輩が引き継ぎ、それをまた下の代につなぐ。こうして専大松戸は1勝を目指すチームから甲子園に出場するチームに育った。「私とともに野球がしたい子がいる限り、頑張り続けたい」と持丸監督は言う。【長沼辰哉】