国立市「マンション解体」は当然の結果です! 街の「景観」「アイデンティティー」をいまだに軽視する“からっぽ”日本人の思考回路
文化的景観と保全
では、こうした景観保護の問題を他国ではどう扱っているのか。一例として米国での施策を見てみよう。 米国では1990年代以降「文化的景観」を重要な文化遺産と位置付け、管理体制の整備を進めている(惠谷浩子「アメリカ合衆国における 文化的景観保全の輪郭」『奈文研紀要』2012) 米国立公園局の資料によれば、文化的景観の定義は次のようになっている。 「文化的・自然的資源とそこに生息する野生動物・家畜の両方を含む地理的領域で、歴史的な出来事・活動や人物に関連づけられ、またそのほか文化的・美的価値を示すもの」 これは、世界遺産条約における文化的景観の枠組みと重なる。国際標準の景観概念から逸脱しない形で、独自の景観まちづくりを進めていることがうかがえる。日本でも、景観そのものを文化遺産にするという考え方を進めていく必要がある。 さて、今回の国立での事例を、今後にどう生かすべきだろうか。今回、国立市では事前にまちづくり審議会が開催され、協議も行われている。ここでは「通りの空間が狭まり、富士山が見えにくくなる懸念」も共有されている。 しかし議事録を読むと、積水ハウス側では、階数を11階から10階に変更すれば、さほど眺望の悪化はないと考えていたように見受けられる。これは大きな認識の違いだった。その結果、マンションが完成してから取り壊されるという珍事になり、大きな経済的損失が発生したわけだ。同社の国立マンション計画撤回は、景観まちづくりの岐路に立つ出来事だった。 ・計画と事業のずれ ・法制度の不備 ・行政と住民の葛藤 その全てが凝縮された騒動だったといえる。将来の紛争を避けるためには、景観を重視する住民の意見を反映した、より広範で強力な建築規制を実施する必要がある。また、そのための基準や条例をあらかじめ整備しておくことも必要である。
景観保護と街のアイデンティティー
少子高齢化が進み、空き家が増加している現在、「コンパクトシティ」の実現が都市計画の焦点となっている。市街地の拡大を抑制し、適度な高さと密度を確保するため、中心部でのマンション建設が各地で進みそうだ。 このままでは、どこの街も駅周辺に一様にマンションが立ち並び、その周囲に繁華街が発達するという風景になりかねない。そのため、 「街のアイデンティティー」 を維持した再開発が重要な課題となる。 国立市の問題を、一部の「騒がしい住民」が騒いでいるだけと見る人もいるかもしれない。冒頭で述べたように、インターネット上では景観保護をからかうかのような意見も散見された。 しかし、こうした考え方は“的外れ”だ。景観とは、その地域に住む人々の ・歴史 ・文化 ・生活様式 を反映したものである。長い時間をかけて形作られてきた景観を守ることは、そこに住んできた人々の生活を尊重し、未来に引き継いでいくことなのだ。それをあざ笑うことは、歴史と文化の破壊に加担することである。 国立市の経験は、開発と保全のバランスを取ることの難しさを如実に示している。また、ビジネスと地域社会の新たな関係についても疑問を投げかけている。社会の多様な価値観をどのように調和させるのか。国立市の苦闘は、日本の「成熟」の物語とも重なる。 アイデンティティーを失った存在は機能的で合理的であっても、からっぽである。ノーベル文学賞候補となり、今でも海外で広く読まれる作家の三島由紀夫(1970年没)は、今から54年前に「果たし得ていない約束―私の中の二十五年」という随筆で次のように書いている。 「このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或(あ)る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」 もはや「富裕」「経済的大国」であることすら怪しくなってきた日本で、さらに「からっぽ」が進んだらどうなるのか。国立市の件に限らず、景観とアイデンティティーは深く結びついているのだ。
業平橋渉(フリーライター)