矢野燿大氏 “幻の引退試合”に見た球児の熱いハート 家の前で待ちたくさんの感謝の言葉
(上)からの続き 【矢野 燿大氏(下) 球児にYELL】阪神の多くの修羅場を、球児とのバッテリーでくぐり抜けてきた。最終回、相手も死に物狂いで点を取りにくる。ヒット一本で流れは変わる。失投は許されない。ファンの人たちは必ず抑えてくれると信じて、応援してくれる。裏切れない。球児も私も必死だった。 中でも球児の男気、熱いハートを感じた時があった。10年9月30日の甲子園での横浜(現DeNA)戦。私の引退試合だった。覚えてくれているファンの人も多いはずだ。チームが優勝争いの中にあったため、試合は勝利優先。引退試合としての出番は「リードをしている展開で9回表の2死から」と首脳陣は決めていた。 2点リードで迎えた9回に球児が、私の登場曲とともに登板。だが、いつもと違うシチュエーションが手元を狂わせた。いきなり連続四球で無死一、二塁。4番・村田修一への4球目、149キロは左翼スタンドに運ばれた。逆転3ラン。最後のプレー機会は失われた。それでも、これぞ野球だと後悔の思いはなかった。試合後には引退セレモニーをしていただき、ファンの人たちに感謝を伝えることもできた。 ロッカーを整理したりして、その日は普段より長く甲子園にいた。車に荷物を積んで家に戻ろうとしたところで、球児から連絡が入った。「家の前で待っています」。夜も遅いのに、帰りを待っていてくれた。これまでのお礼、感謝の言葉を球児はたくさん用意してくれていた。思いが伝わった夜だった。球児はそういう男だ。 よく食事をしたし、釣りやゴルフで時間をともにした。勝った後も勝てなかった夜も、話題はいつも野球だった。相手の主力打者の傾向と対策。こういう話をし始めると、時間はあっという間に過ぎていった。野球が本当に好きな男だと思う。 その球児が阪神の監督になる。驚きはなかった。いずれ「藤川監督」が誕生する可能性はあると思っていた。十分な能力を持っているとマスク越しで見ていた。 (スポニチ本紙評論家)