伊坂幸太郎の小説は韓国でどう映像化された? Netflix『終末のフール』の隠れたテーマ
原作と共通したテーマが最も表れている中学校教師セギョン(アン・ウンジン)
当初は、Netflix配信作品で大きな役を得てきているユ・アインのシーンがもっと多かったという。しかしNetflixシリーズ『マイネーム:偽りと復讐』のキム・ジンミン監督は、アインが不法に薬物を使用したスキャンダルを受けて、彼の役柄を小さくする編集を余儀なくされたと語っている。(※) このように、さまざまな思惑と事態への対処によって、本シリーズは原作とは異なる印象を受ける作品となったが、それでも帰結するテーマは原作と共通している。それが最も表れているのが、中学校教師セギョン(アン・ウンジン)のキャラクターだ。 劇中で子ども自身が言及するように、やがて消滅することが予想されるこの場所では、“子どもは大人になれない”。にもかかわらず、セギョンは子どもたちの面倒をみて、その生活を守ることに生きがいを見出すようになっていく姿を見せるのである。 一見、それは無意味なことだと思えるかもしれない。しかし、よくよく考えてみれば、小惑星の衝突や、不慮の事故、重い病気を回避して寿命を全うしたとしても、一人の人間に与えられる時間が有限であることには変わりがない。そう考えれば、残された時間に個人差はありながら、本質的に全ての人々が死の運命を逃れられないのは一緒だといえるのではないか。 Netflixのアニメシリーズ『キャロルの終末』でも、主人公の中年女性が、本シリーズ同様の、惑星が衝突するというシチュエーションに巻き込まれる。そこでは主人公キャロルのように、周囲の人々が仕事を辞めて享楽的に過ごすなか、毎日事務職をこなし続けるという生活を選ぶ者が存在するという、一見奇妙な選択を描いていた。 しかしそれは、作中の人々の残された時間が、人間の一生が凝縮されたものと考えれば、とくに不思議なことではないのではないか。人生の目的が面白おかしく生きることだと考える人がいれば、日々の仕事に生きる意味を実感する人がいてもいい。残された時間のなかで、それぞれの人がそれぞれの生き方を選んでいるだけなのである。 フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールは、1970年代の終わりに著作のなかで、「大きな物語の終焉」という概念を示した。これは、人類の科学技術や文化が一定の成熟を見せたことで、それまで多くの人々にとって共通していた、人類の発展へと向かう哲学が効力を失ってしまっているという考え方である。つまり、それ以降の人々は、細分化された個々人の“小さな物語”を生きていくしかないということだ。 本シリーズが示すのは、そんな現代社会のある種の限界であり、また個人主義的に生きられる自由の素晴らしさなのではないだろうか。人々の価値観が分かれ、それぞれの選択が異なっていくことには寂しさをおぼえるところがあるが、自分自身の感情や考え方が優先できるようになったのは、けして悪いことではない。近年、とくに個人の視点から物語を描くようになってきているのは、このような社会の価値観の変化にゆるやかに対応してきているからだと考えられるのである。 だからこそ本シリーズは、そのような内的な平等が存在する反面、経済的な理由で自由がきかなかったり、力のない子どもたちが、未来を選べない社会状況にも光をあてているのではないのか。劇中で小惑星が衝突するとされている韓国や日本、中国などの国々では、とくにこの文化の成熟と格差問題との相反する関係が目の前の大きな課題となっているということが、本シリーズの隠れたテーマなのかもしれない。 参照 ※ https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2024/04/20/kiji/20240420c000413K1025000c.html
小野寺系(k.onodera)