《ボリビア》コロニア・オキナワ入植70周年=小さな村の壮大な歴史(1) 1954年6月に那覇港出発
未開のジャングルを沖縄県人持ち前の結束力で切り開き、戦後、もう一つの「オキナワ」として発展し続けている土地がボリビアにある。ボリビアには元々、世界的景勝地ウユニ塩湖などの印象しか持っていなかったが、8月17日に同国サンタクルス県の「コロニア・オキナワ」で行われた入植70周年記念式典を取材することになった。本連載では初ボリビアにして初コロニア・オキナワの記者が、現地で学んだ同移住地における沖縄系移民の歴史や世界各地から慶祝に集った沖縄県人の様子を伝える。(島田莉奈記者) 8月15日、コロニア・オキナワに最も近い空港、サンタクルス県ビルビル空港に到着した。ビルビルとはグラアニー語で「平野」という意味。ビルビルの空気は乾燥し、砂埃舞う空港の敷地内をダチョウが走り回っていた。 ボリビアには「標高が高い国」という印象があった。だが実際は首都ラ・パスこそ標高4千mあるものの、サンタクルス県の標高は400mにも満たない。同県滞在中は、山はおろか坂すら見ることがなく、延々と続く地平線ばかりが目の前に広がっていた。 ボリビア東部に位置するサンタクルス県の中心都市サンタクルス・デ・ラ・シエラは同国経済の中心地だ。コロニア・オキナワは同市から北東に約80km離れたところにある。第一移住地から第三移住地に区分され、総人口は1万4千人。240世帯800人の日系人が住み、農業や小売店業、日本語教室業などに従事している。 ボリビア日本人移民の歴史はブラジルよりも古く1899年まで遡り、同年4月、790人の日本人移民を乗せた「佐倉丸」(日本郵船会社)がペルーに入港したことに始まる。 日本人移民は入植先で言葉が通じないことや諸々の知識不足から現地人と対立し、移住地を離れる決断をする者が後を絶たなかった。その中で、標高4千mを超えるアンデス山脈を踏破して、ボリビアへ渡った91人がボリビア日本人移民の先駆けとなった。その後もペルーからボリビアへの再移住は続いた。 当時のアマゾン地域の日本人移民はゴム生産業に従事することが多かったが、第一次世界大戦終了を境にゴム生産ブームも翳りを見せ、事業をたたみ、ボリビアを去る者も増えた。 第2次世界大戦で日本が敗戦を迎えると、ボリビア在住の沖縄出身者が中心となり、日本への救援活動を始めた。沖縄が米軍による占領統治下となっていることがわかると、ボリビアへの移住を呼びかけた。呼びかけを受け、米軍傘下の琉球政府がボリビア移住計画を引き継ぎ、サンタクルス近郊を移住地として選定。1954年6月、沖縄県人275人を乗せたチサダネ号(ロイヤル汽船)が、那覇港南岸の軍桟橋を発った。 そこから70年の月日が経った。コロニア・オキナワ内を散策していると「リュウキュウ大通り」や那覇の守札門に似せた門構えの日本食レストランなどがあり、移民らの沖縄を思う気持ちが連綿と受け継がれていることがよくわかった。(続く)