『バード』イーストウッドが否定した “破滅こそ芸術”
驚嘆するほどの陰影の濃さ
撮影を担当したのは、『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』(86)で既にイーストウッドと組んでいて、その後も彼の監督作の多くの撮影を手がけ、オスカー候補ともなるジャック・N・グリーン。イーストウッド監督のもと、驚嘆するほどに陰影の濃い画面づくりに挑んでいる。 ハリウッドのメジャー作品では、奥行きのあるリッチな雰囲気を作るため、完全な黒味が出ないよう、暗いシーンでも複数の照明を当てるのが常道だとされているが、ここではよりアート風なアプローチで、ときに平面に見えるまでに漆黒の割合が多い画面が続く。ちなみに、ネオンサインの点滅する明かりと窓に流れる雨水の流れが、暗い部屋に映し出される場面は、本作の美的な演出における白眉といえるだろう。 このように暗い場面で陰影を濃く映し出す方針は、イーストウッド監督作ではそれほど珍しいものではないが、本作『バード』では特に意味深いものがある。なぜなら、劇中においてバードが、ビッグバンド編成でのレコーディングに難色を示し、小規模でストイックな活動を重視するようになっていくという描写があるからだ。超絶的なテクニックを持っていたことはもちろんだが、ジャズの世界をアグレッシブに開拓していく姿勢こそがチャーリー・パーカーの最も偉大な部分であったことを考えれば、大作志向とは逆の方向に進もうとする映画づくりは、その姿勢にかなうものだといえよう。本作が興行的な成功を収められなかったのは、このような理由があるのだ。 そして、この暗いイメージの源泉となっていたのが、バードの薬物やアルコールへの依存という事実であったことは明らかだ。バードと私生活をともにしていたチャン・パーカーは、そこで生じる不和や苦しみを最も経験してきた人物だといえる。だからこそ本作は、われわれが想像するバードのイメージよりも暗いものにならざるを得なかったのだ。
人間として描く“バード”
依存症に苦しむ姿が印象に残る本作では、バードを真の巨人へと至らしめた音楽に対して、音楽的な実験性そのものにはあまりフォーカスしていくことがない。 ここは、プロのジャズの世界に足を踏み入れる可能性があったイーストウッドだからこそ、むしろバードの音楽性を分析していくことへの引け目を感じたのではないかと類推できる。ジャズミュージシャンとしてバードを描くことはおこがましいが、「人間」としてなら描くことができる……おそらくそれが本作の基本姿勢なのだろう。 それでも、彼の音楽性について語られる箇所が存在しないわけではない。その一つが、ジャズファンにとって有名な「シンバル事件」のシークエンスだ。「シンバル事件」とは、まだ16歳だったチャーリー・パーカー少年が、カウント・ベイシー・オーケストラのドラマー、ジョー・ジョーンズが地元のカンザスシティのバーに来た際、演奏希望者の列に並んだことに端を発する出来事だ。初めて大物と音を合わせたとき、独自の即興演奏を試そうとしたパーカーは、バンドとの連携を失い、音程やリズムを外してしまう。苦しい状況の少年を見かねて、ジョー・ジョーンズはシンバルを床に投げ、大きな音を立てることで演奏を中止させたのである。 ジョー・ジョーンズにとって、この行為は一種の助け舟だったのかもしれないし、10代の少年がまずい演奏をしたことは、とくに不名誉でも何でもないことだと思える。だがパーカーはその苦い経験をモチベーションへと変えて猛練習を続け、比類ないほどの超絶的なテクニックを身につけることになる。本作では、ひな鳥が「バード」になっていく成長を、演奏シーンとともに誇らしげに描いているのだ。