「ストライカーとしては珍しいタイプ」代表通算50ゴールの岡崎慎司が明かした「プロとしての矜持」
’23-’24欧州サッカーシーズンも最終盤。日本人選手が数多く在籍するベルギーは目下、プレーオフの真っ最中。日本企業のDMM.comが経営権を持つシントトロイデンは、レギュラーシーズンの7~12位のチームが参加するプレーオフ2に挑んでいる。 【写真】すごい…!岡崎慎司「ダイビングヘッド」での豪快得点シーン! 5月17日のOHルーヴェン戦は元日本代表・岡崎慎司の現役ホームラストマッチとなった。4~5月のパリ五輪アジア最終予選(AFC・U-23アジアカップ=カタール)で活躍した藤田譲瑠チマ(22)、山本理仁(22)らとともに、背番号30をつけた38歳のFWは先発出場。膝のケガで昨年12月から約5ヵ月間も公式戦から遠ざかったが、懸命のリハビリの末に今季初スタメン出場を飾ったのだ。 長年、慣れ親しんだ1トップに入った岡崎は献身的な守備を見せる。決定的チャンスはなかなか訪れなかったが、彼らしい泥臭いプレースタイルは健在だった。 後半7分に交代を告げられた際には、シントトロイデンのチームメートはもちろんのこと、三竿健斗(28)、明本考浩(26)ら対戦相手の選手やスタッフも加わった花道で送られ、笑顔でピッチを去っていった。そういった対応をしてもらえるのも、岡崎の人間性が高く評価され、多くの人々に愛されたからに他ならない。 日本、ドイツ、イングランド、スペイン、ベルギーを渡り歩いたプロ20年間で600近いクラブレベルの公式戦に出場し、日本代表としても119試合出場という偉大な足跡を残した男のキャリアの終焉を多くの仲間たちが名残惜しんだはずだ。 ドイツ・ブンデスリーガ1部での2年連続2ケタゴール(’13~’15年)、レスター在籍時の’15-’16シーズンのプレミアリーグ優勝など、多くの人々を驚かせてきた岡崎だが、やはり日本代表50ゴールのインパクトが強烈。日本代表歴代得点ランキングでは、釜本邦茂(80)の75ゴール、三浦知良(57・UDオリヴェイレンセ)の55ゴールに次ぐ3位だ。 ’26年北中米ワールドカップ(W杯)アジア予選に挑んでいる現日本代表メンバーに目を向けても、南野拓実(29・モナコ)の20ゴールが最高。2ケタ越えも13点の伊東純也(31・スタッド・ランス)、11点の上田綺世(25・フェイエノールト)だけで、大舞台に強い印象のある浅野拓磨(29・ボーフム)は9点にとどまっている。岡崎の50点がいかに突出したものかがよく分かるだろう。 「僕自身はすごく珍しいタイプだったかなと思います。ストライカーでありながら、チームがうまくいくようにプレーする選手、というのかな。僕らが代表だった頃は、(本田)圭佑だったり、真司(香川=セレッソ大阪)、ウッチー(内田篤人=解説者)といったタレントがいて、自分は主役ではなかった。右サイドや左サイドで(プレーを)やらなきゃいけない時間も長かったし、そうしないと生き残れなかったんですよね」 岡崎はかつて筆者の取材にこう述懐している。 確かに’08~’19年の代表キャリアを振り返ってみると、つねに最前線で重用されたわけではなかった。彼が代表デビューした岡田武史監督(67・現FC今治会長)時代は、玉田圭司(44・昌平高校監督)や大久保嘉人(41・解説者)らがトップに入ることが多かったため、岡崎はサイドでのプレーが主だった。年間15ゴールを挙げた’09年にしてもそう。前線に陣取るときは2トップがメインで、「1トップの大黒柱」という位置づけからは程遠い印象だったのだ。 しかも’10年南アフリカW杯では、本大会直前に本田が1トップに抜擢され、岡崎はスタメン落ち。ジョーカー的に途中から送り出される立場に追い込まれた。 「圭佑の1トップには正直、ビックリした。だけど、あいつはあいつなりに走ってたし、勝負強いところもあった。それがうまく出たのかなと。チームとしても結果が出てるんで、それが全てですよね」 本人は南アW杯の後、こう言って悔しさを噛みしめていた。それだけ、指揮官から信頼を勝ち得ることができなかったということ――厳しい現実を受け止めるしかなかったのだ。 次の’14年ブラジルW杯までの4年間も最前線での起用は限定的だった。アルベルト・ザッケローニ監督体制は長身のターゲットマンタイプを1トップに置きたがり、前田遼一(42・日本代表コーチ)や大迫勇也(34・神戸)、柿谷曜一朗(34・徳島)らを起用。岡崎はまたもサイド要員と位置づけられたのだ。 岡崎は当時、マインツの絶対的FWとして点を取りまくっていた。マインツの指揮を執っていたトーマス・トゥヘル監督(50・現バイエルン)は「シンジは日本代表では右サイドで使われているのか? トップに入っているのは誰なんだ?」と驚きを隠せない様子だった。岡崎本人も「なぜ自分ではダメなのか」と疑問を抱いたに違いないが、献身的な男は「フォア・ザ・チーム精神」を忘れなかった。 「僕が中に入り過ぎると、圭佑や真司と被ってしまう。自分のサイドで1対1の形を作ってディフェンスを引き出したら、(背後を取れるから)勝ち。何回も裏を狙って『自分だったら行ける』っていうところを見せられればパスはくるし、結果的にゴールチャンスが生まれる」 これも当時の彼の発言である。つねにトップ下の本田、左サイドの香川の2人を慮りながらプレーしていたのだ。クラブと全く異なるポジションを託されながら、しっかりと役割を遂行し、得点も量産してくれるのだから、ザッケローニ監督は岡崎に心から感謝していたのではないだろうか。 けれどもご存じの通り、ブラジルでの日本代表は惨敗。岡崎自身もコロンビア戦のゴールで一矢報いるのが精一杯だった。だからこそ、’18年ロシアW杯までの4年間は「1トップで勝負したい」と熱望し、実際にその意欲を前面に押し出した。ブラジルW杯後に指揮を執ったハビエル・アギーレ監督(65・現マジョルカ)もその意思を尊重。岡崎は初めて、日本の大黒柱というに相応しい位置づけで使われた。 ところが、そのメキシコ人指揮官は八百長疑惑に巻き込まれた挙句、’15年アジアカップ(オーストラリア)で8強敗退。電撃解任され、’15年3月からヴァイッド・ハリルホジッチ監督(71)が後を引き継いだ。ハリル体制発足当初は岡崎自身がレスターで大活躍していた時期で、ボスニア人指揮官も存在価値を認め、新チーム発足時はアギーレ監督同様に彼を1トップのファーストチョイスと位置付けていた。 それが長く続けばよかったのだが、’16年9月からスタートしたロシアW杯アジア最終予選でいきなりUAEに敗れると、当時「ビッグ3」といわれた本田・香川・岡崎を控えに回し始める。その後、ハリルホジッチ監督は大迫、原口元気(33・シュツットガルト)、久保裕也(30・シンシナティ)らを主軸に据え、岡崎は大迫にポジションを奪われる形になった。 自分のポジションを奪う形になった大迫について、彼は「試合に出られない時期が来ると、むしろ僕は燃える。1トップで出ているサコはタイプの違う選手だと思ってるし、参考にしたいところが沢山ある」とリスペクトを示し、前向きな競争意識を持って取り組んだ。 つねに仲間を尊重し、チームの勝利を第一に考えるプレースタイルを貫いた結果が、’17年3月28日のタイ戦での代表50ゴール目という形で結実する。彼の真骨頂といわれる、ダイビングヘッドで記念すべき得点を奪った際、本人は改めて仲間への深い感謝を口にしたのだ。 「最近、ヘディングのゴールがなかったし、もう1回、自分の感覚を蘇らせる意味でもよかった。代表フル出場も何年かぶりだったし、そういう意味でもホッとしましたね。『自分は(みんなに)活かされてここまで来た』っていうのをつくづく感じます。『何で俺はこんなに下手なんだ』と思いながら、能力の低さを感じながらやってきたんですけど、周りに自分の動きを見てもらって、活かされてゴールを取ってきた。50点だからっていう特別な感慨はないですね」 FWというのは、味方の目の前に転がったボールを奪い取って点を取るようなエゴイストが多いものだが、岡崎はとにかく「チームのため」「人のため」という献身性と潔さに溢れた選手。いかに心が広く、大きな器を持つ男なのかが、この発言からもよく分かるはずだ。 代表から外れた後、スペインとベルギーで香川と励まし合いながら、ともに’22年カタールW杯を目指し続けられたのも、その人間性ゆえだろう。 香川が「岡ちゃんには本当に感謝している」と語ったことがあるが、ポジションを争うライバルからも愛されてしまうのが岡崎だ。本人が言った通り、「珍しいタイプ(のFW)」だったと言っていい。 紆余曲折ある中で、「チームを勝たせるためなら何でもやる」というスタンスを貫き、つねに全力を注いてきた。その魂は必ず次世代に引き継がれるはずだ。浅野を筆頭に、上田綺世、前田大然(26・セルティック)ら、現代表のFW陣にはそうあってほしい。 「綺世や大然とは’19年のコパアメリカで一緒に戦いましたけど、自分で壁を乗り越えて成長していってもらいたいですね。どれだけ苦しい状況に追い込まれても、頑張った人間には必ず成果が返ってくるのがサッカー界だから」 間もなくユニフォームを脱ぐ偉大な点取り屋は、日本サッカーの未来を担う若手に改めてエールを送った。 岡崎の思いを受け継ぐ人材が続々と出現し、彼自身も欧州で指導者になるという次の目標に力強くまい進してくれれば理想的。「献身の男」が華々しいセカンドキャリアを歩むことを願ってやまない。 取材・文:元川悦子
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