ロック界のカリスマ、フランク・ザッパの娘が語る「私たち家族は健全なカルト集団だった」
父の愛情と創造力と導きを求め続けた。父の絶望的なユーモアと尽きることのない創造性、それに飢えていることをカルト的な孤独と呼ぶなら、私は喜んで受け入れる
先日、ロサンゼルス郊外のサンフェルナンド・バレーを散歩していたら、歩道に「全てのカルトが悪というわけではない」と書かれていて、思わず笑ってしまった。【ムーン・ユニット・ザッパ(俳優、歌手、作家)】 【映像】フランク・ザッパの革新的人生 私は新刊の回顧録『アース・トゥ・ムーン』で、ロックのアイコン、フランク・ザッパの娘として育った日々を振り返っている。私にとって父は『スター・トレック』のミスター・スポックであり、キリストでもあった。子供の頃、父の愛情を奪い合う相手は家族だけではなかった。彼の辛辣で風刺的で誘惑的な歌を聞いて信者になった熱狂的なファンもライバルだった。 私たち家族の関係は、カルト集団と似ていなくもなかった。私は偉大な指導者のために喜んで食べ、眠り、飲み、生きた。もっとも、私たちは健全なカルトだ。父の絶望的なユーモアと尽きることのない創造性にはいくら触れても足りず、それに飢えていることをカルト的な孤独と呼ぶなら、私は喜んで受け入れる。 父の膨大な数のアルバムはタイムカプセルだ。一つ一つの曲が記憶生成装置となり、特定の場所と時間に私を運ぶ。父の膝くらいの背丈だった頃に、地下の簡易スタジオで聴いた曲。子供部屋のベッドの上段で人形を抱き締めながら聴いた最新作──。 5歳の時に初めてもらった日記帳には、父の美しいブロック体と黒インクで題辞が記されていた。私は架空のラクダの短編小説を書き、修道女に扮した自分を描き、(母の)ゲイルとフランクが裸でパンケーキのように重なるスケッチを描いた。 ティーンになると、私の日記は父の居場所の記録になった。フランクはいつも旅をしていた。ツアーが始まると1年の大半は家を空け、鳥が枝に舞い降りるようにほんのつかの間、帰ってきた。 ゲイルは自分の寂しさを私にぶつけることが多く、父の時間と関心と愛情を切望する私の思いは一層深まった。正確には、心が痛かった。 自分の家族が普通ではないことは早くから分かっていた。家の中にはあふれそうな灰皿や空のコーヒーカップ、ウィジャボード(占いのゲーム盤)が並んでいた。 リビングが紫色で、父親の仕事場にダッチワイフがある家を私はほかに知らなかった。上着のポケットにパンケーキを入れてヨーロッパから持ち帰り、妻に味を再現させるという話も聞いたことがない。 色鮮やかな思い出の1つは、フランクがゲイルと私をリリー・トムリンのライブに連れて行ってくれたことだ。珍しく楽しそうに笑っている父を見て、いつか私もこんなふうに彼を笑わせたいと思った。