憧れの「都大路」、全国高校駅伝はなぜ京都で行われているの? 五輪へ羽ばたいた選手たちも駆け抜けたロードの歴史をたどる
師走の京都市内を高校生が駆ける全国高校駅伝は、24日の大会で男子が第74回、女子が第35回を迎えます。「都大路」は高校生ランナーの憧れとして親しまれ、ここから五輪選手も多く羽ばたきました。長野県勢は、男子は佐久長聖が2008年と17年、女子は長野東が22年に優勝しました。たすきをリレーする「駅伝」は日本生まれの競技で、正月の東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)など、冬の風物詩として注目を集めます。伸び盛りの高校生たちが力を尽くし、火花を散らしてきた舞台。その歴史や経緯を探ってみましょう。 【写真】全国高校駅伝へ6年ぶりのV狙う
なぜ京都で行われているの?
戦前は関東、関西でそれぞれ旧制中学の大会が開かれていました。終戦、学制改革後の1949年1月、新聞社の呼びかけに応じた44高校による自由参加の駅伝大会が大阪で行われました。本格的な全国大会開催への機運が高まり、都道府県予選を経た代表校による全国高校駅伝が50年12月27日、産声を上げました。舞台は大阪市の毎日新聞本社前から堺市まで国道26号線を往復する32キロ。当時行われていた毎日マラソンのコースの大半を使用したものでした。 52年の第3回からフルマラソンの42・195キロに距離を変更。中距離型の選手も参加できるよう、3キロ区間を二つ設置。現在に続く長短7区間の原型ができあがりました。 自動車が普及し始めると、大阪の市街地を走ることが難しくなりました。大阪府内で何度もコースを変えた後、66年に京都への移転を決定。修学旅行生を泊める旅館が多く、宿舎を確保しやすい点なども加味されたそうです。 79年からNHKによる全コースのテレビ中継が始まり、都道府県大会の出場校も増加。新たに駅伝に力を入れる学校も増えました。92年には仙台育英(宮城)がケニア人留学生を起用。飛び抜けた走力の衝撃は大きく、95年には留学生起用を1人に限定、2008年には最長の1区(10キロ)への起用を禁じるなどのルール変更を重ねてきました。 女子は1989年、ハーフマラソンの21・0975キロを5区間に分けたコースで開始。午前に女子、午後に男子のレースが開かれるようになりました。昨年は長野東が長野県勢として初制覇。これまでに女子は15府県、男子は16県から優勝校が生まれています。