消えゆくものの魅力。天然秋田杉で木桶を作る
秋田県の桶の歴史は古く、秋田城址の発掘調査で平安時代後期のものと推測される秋田杉の桶が見つかった記録がある。日本三大美林のひとつで知られる天然秋田杉は、木目が均一に揃って美しく、まっすぐで割りやすい。恵まれた資源をもつ秋田県では、どこの町や村にも桶屋があり、生活に欠かせない木桶を作っていた。 政太郎さんが働き始めた昭和20年代後半は、生活の様々な場面で木桶が使われていた。風呂桶、洗い桶、たらい、漬物桶、馬を洗う桶、馬の餌を入れる飼葉桶。入れ物という入れ物が木桶だった。
「桶屋以外でぎね。桶屋しか知らねもの」
「赤ん坊が生まれた時に産湯さ入れるべ。その産湯入れるなも桶だった。赤ん坊どご入れでおぐ“いずめ”わがるが? 藁で編んだなもあるども、ここあだりは桶だった。田植えが終わる頃はほどんどの農家が家々で味噌を仕込んだ。春は味噌桶を作るのにたいした忙しい時期だった。寝ないで、と言えばおおげさだども、ほんとに、作っても作っても売れたもんだ」 けれども徐々に生活が変わり、木桶はタイルやステンレス、プラスチックなどの新しい素材にとって代わられた。何度も修理ができて長く使うことのできる木桶を、大切に使い続ける人はいなくなった。農耕馬もいなくなったし、大きな味噌桶に味噌を仕込む家庭も減った。当然、政太郎さんの仕事は減った。 「桶屋の将来は駄目だ。んだども、俺の頭では桶屋以外でぎね。桶屋しか知らねもの」
自分で外に出て売りにいかなければならないと、仲間を頼って県の観光担当を紹介してもらい、全国各地のデパートで開催される物産展に出るようになった。 「昭和の終わり頃だ。バブルのころ。随分と売れたもんだ。俺が“んだ!んだ!”って秋田弁でしゃべれば、懐かしいなっていうお客さんいたり、会場さ、同級生がお土産いっぺたないで訪ねてきてくれたりした」 「神戸の大丸にも行ってだ。阪神・淡路大震災で駄目になったのをテレビで見た時は悲しがった。だども損壊した2年後に再開した時にも物産展に呼ばれて行った。その時のお客さんに、自宅は潰れたけれども、遠藤さんの桶は無事だった。今もあなたの桶に糠味噌漬けてますよと言ってくれた人がいた」 多い時は年に十数回出かけていた。今でも年に数回出かけている。 「俺は運がよがった。人に恵まれて、繋がりができて、今がある。ありがたいことだ」