本郷和人 武田信玄の失敗は「北信濃10万石に10年も費やしてしまった」こと…信玄・晩年の領土規模<約60万石>を信長は20代で達成していたという事実
2023年に放映された大河ドラマ『どうする家康』。家康は当時としてはかなりの長寿と言える75歳でこの世を去っています。「家康が一般的な戦国武将のように50歳前後で死んでいたら、日本は大きく変わっていた」と話すのが東京大学史料編纂所・本郷和人先生です。歴史学に“もしも”がないのが常識とは言え「あの時失敗していたら」「失敗していなければ」歴史が大きく変わっていたと思われる事象は多く存在するそう。その意味で「武田信玄のとある失敗」が歴史に与えた影響は絶大だったそうで――。 信玄最大の失敗 長男・義信の自死はなぜ起きたのか…「ただの一武将」四男・勝頼が継いだことで武田家には軋轢が * * * * * * * ◆国へのこだわりに絡め取られた信玄 前回、武田信玄最大の失敗「長男・義信の自死」について触れました。 もうひとつ、これは失敗ということではないのですが、信長と比較して、信玄は「国」という単位にこだわり過ぎた気がします。 信玄は甲斐の隣の信濃を攻略した。これは先に述べたように信濃を攻略することで、甲斐本国の盾にするという意味があったのだろうと、僕は考えていますが、そこは固執しません。 「そこに信濃があるから取った」ということならばそれまでですが、ここでの問題は、信玄は「信濃国」というまとまりにこだわり過ぎたのではないかということ。 信玄は10年をかけて南信濃を支配下におく。と、そこに謙信がやってきて川中島で戦いを繰り広げます。謙信とは10年間も戦い、計20年をかけて信濃国を自分のものにします。そして信玄は、室町幕府が与えるその国のリーダーの資格、守護を手に入れ、さらに朝廷が与える資格である国司の官も入手し、信濃守になりました。 つまり信濃国を完全に自分のものにしたわけですが、はたしてこれらにそこまでの意味があったのでしょうか。信濃守護も信濃守も名前だけだと思います。
◆信長の場合 たとえば信長からは「国」へのこだわりがあまり見られません。 信長は伊勢国に侵攻しますが、生産力の高い北伊勢だけ自分のものにすると、手強い敵がいる南伊勢は、一度、放置してしまう。そうした融通が利く。 つまり「国という枠」を完全に支配していかないと気が済まないということはなく、信長の場合、街道や、河川など地形に合わせて自分の勢力を伸ばしていったわけです。 国というものは山や川の地形に合わせて設定されていますから、結果として国単位で勢力を伸ばしていくのは効率的なのですが、それでも信長の場合、それはあくまで「見た目」であって、実態としては国にはこだわらず、必要とする「地域」を手に入れていきました。 その点、信玄は国というまとまりにこだわっていた。
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