獣神サンダー・ライガーが“燃える闘魂”アントニオ猪木との思い出を語る「スパーリングしたときのあの皮膚感は特別だった」【週刊プロレス】
1983年にメキシコで拾われる形で新日本プロレスに入門、1989年4月にマスクマンに変身して2020年1月まで覆面レスラーとして押し通した獣神サンダー・ライガー。若手時代を振り返ると、“新日本プロレスのアントニオ猪木”最後の弟子の1人ともいうべき存在である。一昨年10月、79歳で亡くなられた猪木さんに対する思いとは。今になって振り返ってもらった(聞き手・橋爪哲也)。 【衝撃写真】公衆の面前で衝撃…アントニオ猪木、暴漢に刺される! 左耳の後ろを10針縫う
――ライガーさんはまだ素顔の若手時代、何度か猪木さんとタッグを組んでますよね(1986年2月5日=大阪城ホール、1987年10月19日=富士市立富士体育館)。あの時の心境はどのようなものでしたか? ライガー 「俺でいいのかよ?」って思ったよ。いろんなプレッシャーがあった。猪木さんの試合だからヘマできないし、俺の名前を出してくれた気持ちもあるわけだし。船木とタッグを組んでやった時(88年4月10日=大阪府立体育会館)は試合前にあれやろうこれやろうって悪だくみしてウキウキしてやったけど、タッグを組むってなったらもう大変。 ――しかも大会場での試合やTVマッチでしたからね。ほかの選手と組んで、そういう気持ちになったことはありました? ライガー ない! スパーリングやっても、猪木さんは違う。なんて言ったらいいのかなあ……もう皮膚感が違うのよ。そうとしか言いようない。関節を決めにいっても、藤原さんやほかの選手とスパーリングするのとは違う。 ――それは自分の中に、猪木さんに対する気後れやほかの思いがあるからですか? ライガー そんなの関係ない。藤原さんもそうだけど、先輩から一本取るって価値は、同期とスパーリングして一本取るっていうのとは雲泥の差。しかも相手は猪木さんだぜ。こっちは若いから、猪木さんから一本取ってやろうってギラギラしてた。でもやっぱり、猪木さんは特別だった。あの皮膚感って何だろう? 表現できないね。 ――ライガーさんの方から猪木さんに「スパーリングお願いします」と言えるような立場じゃなかったでしょ? ライガー いや、俺の方から「猪木さん、お願いします」って言ってたよ。軽い気持ちで。俺、バカだから(笑)。猪木さんの方から、「オイ、やろうか」って声かけられたこともあったし。 ――でも、そうやって来るからかわいがられてたのかもしれませんね。 ライガー 藤原さんは嫌がってたけどね。「まだ、お前か……」って。でも山本小鉄さんに言われてたんだけど、「お前は特別な形で新日本プロレスに入門してるんだから、何をすればいいかわかるだろ? ちゃんと人一倍練習しなきゃダメだぞ」って。その約束もあったんでね。 ――一昨年10月に亡くなられましたけど、今でも猪木さんは特別な存在ですか? ライガー 特別。全然、特別。今になってこそ初めて、この歳になってこそ初めて、猪木さんが何を言わんとしてたかがわかる。ああ、こういうことだったんだとか。いまだにわかんないこともいっぱいあるよ。猪木さんって、先へ先へ行きすぎる人だったと思う。タバスコの件とか、ブラジル料理の件とか。プロレスでもそう。私生活でもそう。先へ行きすぎる人だった。だから、今になってやっと理解できるんだよ。 ――猪木さんが言われたことで、印象に残ってる言葉ってありますか? ライガー いっぱいあるけど、「川はいくつに分かれても、最後は海にたどり着くんだよ。ガタガタするな」かな。その言葉も、言われたその時はわからなくても今になってわかる。ほかの人もそうかもしれないけど、俺、絶対的な“猪木イズム”を継承してると思ってる。猪木イズムがわかってるっていうのかな。だから逆に、「お前らそう簡単に猪木イズム継承って言うなよ」って思ってるところはある。俺は付け人もしてたし、試合でタッグも組んだしね。スパーリングもやったし。いろんなことを教わったていう自負がある。その思いはどっかにある、俺の中でね。(つづく)
週刊プロレス編集部