『光る君へ』宣孝の4人目の妻になった紫式部。最初そんな雰囲気はなかったのに…20歳差の結婚に秘めた<それぞれの思惑>を日本史学者が解き明かす
◆「男は妻がらなり」 道長が息子の頼通に「男は妻がらなり(男は正妻の格で決まる)」と言ったのはそういう理由です。 そして親の財産権は娘が継承することが多く、夫婦別産なので離婚も珍しくなく、安定した夫婦関係はほとんどない社会といってもいいくらいです。 それでも式部が宣孝の四人目の妻という不安定な立場を選んだ背景には、宣孝と式部のそれぞれの思惑があったと思われます。 宣孝の正妻についての資料はありませんが、「従三位大蔵卿」まで異例の出世をした三男隆佐の母だったようです。彼女は宣孝と同じ北家高藤流の中納言藤原朝成の娘です。 この一族は醍醐天皇の母方氏族でしたが摂関家に押されていました。 朝成は最後の上級貴族でしたが後継者に恵まれず、以後高藤流は四位、五位の受領(地方国司)に留まるようになります。その頃に宣孝は、『枕草子』にも書かれた、山吹色の衣装で金峯山に参詣する派手なパフォーマンスで名を売って、以後も有能な受領として活躍しています。 つまりかなり目端のきくやり手だったのです。そして宣孝から見て朝成は祖父の兄弟、その娘は父の従姉妹です。彼はいわば本家の娘と結婚して、高藤流の中心人物になろうとしたようです。
◆宣孝の狙いは娘婿が叶えたのかも とすれば、同じ一族で、高藤の甥の中納言藤原兼輔、この血統のもう一人のエリートの子孫である紫式部との結婚にも、やはり思惑があったと想像できます。 父の為時の越前守抜擢が、宋の商人との対応を目的としていたという最近の説を踏まえれば、外来貿易を視野に入れた学者官僚との結びつきにも魅力を感じたのかもしれません。 このように宣孝の思惑を考えると、為時の家産を受け継いだ紫式部は利基流藤原氏のいわば代表として高藤流の宣孝を選んだのであり、軽々には離婚されない読みがあったようにも思えてきます。 実際宣孝の越前守の在任中に式部は帰京しているので、宋人と対応したことで話題の人、為時の邸の女主人として宣孝の訪れを待っていたのです。 二人の結婚は宣孝の予想外の早世により短期間で終わり、彼の本当の狙いはわからないままです。しかし彼の息子と娘は、親を越えて立身します。 隆佐と、後冷泉天皇の乳母となり、従三位の位を得て、「大弐三位」と呼ばれた紫式部の娘、賢子です。彼女の夫は高階成章といい「正三位大宰大弐(太宰府の次官で、現地支配者)」になります。大宰大弐は外来貿易でよく稼げる職務で、成章も「欲大弐」と言われました。 宣孝の狙いは娘婿が叶えたのかもしれません。
榎村寛之
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