高知東生59歳、逮捕後の“自分の第二章”で再認識「やっぱりエンターテインメントでしか生きられない」
オレたちから始まる、表現者としてのパターン、受け皿を作ってあげたい
――商業映画に取り組んだことで、表現することの喜びを改めて感じましたか? 高知:逮捕されたあと、“自分の第二章”の仕事はなんでもいい、生きていくために働かなきゃという意識があった。でも振り返ると、オレたちはやっぱりエンターテインメントでしか生きられないというのは、ぶっちゃけた話として、再確認できました。 ただ、全部をさらけ出して、理解してくれる人たちに包まれたうえでの、今日という日だから、そこをちゃんと理解する。そのうえで表現者として、リカバリー・カルチャーとして、いま声を出せていない、苦しんでいる人たちにも、新たにレールを敷いてあげたい。オレたちから始まる、表現者としてのパターン、受け皿を作ってあげたいなと思います。そういった使命感はあります。 ――いまの高知さんだからこその表現だと。 高知:かもね。過去に蓋をするのではなく。小説にしてもエッセイにしても作詞にしても、役者の粋を超えて、いろんな表現がある。自分は役者しかできないと思っていたけれど、必要と思ってチャンスをくれる人たちがいる。あとは最善を尽くす。昔は完ぺき主義で苦しんでたんだけど、「完ぺきなんかいらねえや、その日、その時の最善を尽くして、つまずいたら次につなげよう」と。変な肩の力みが取れました。
自分らしく、自分を大事に生きる
――『アディクトを待ちながら』のクライマックスで、みんなが語る場面のセリフは台本に書かれたものではなく、キャスト自身の言葉であり、即興だそうですね。高知さんが最後に語るところもご自身の言葉なのですか? 高知:最後だけでなく、僕が出ているシーンは、台本にセリフなんてありませんでした。骨組みが書かれているだけ。監督が「芝居ではなく、いまあなたが生き直している、そのときに感じることを、そのまま話してください」と言って。最初は気合を入れて、それこそ完ぺきにやらなくちゃとセリフを考えて作ったりして、眠れなかったけど、「これはまた旧型のオレが出てる」と気づいた。それで「今の自分が感じていることをそのまま言語化しよう」と思ってやりました。最後の外での雨でのシーンも、自然とああいう言葉が生まれていました。 ――2020年に出版した半生記『生き直す 私は一人ではない』では、特に終盤、多方面に謝っている印象が残りました。『アディクトを待ちながら』のラストでは、「謝るのはやめた。ありがとうと言いたい」と口にしています。高知さん自身の変化ですか? 高知:「ありがとう」という言葉に変わったのは、自分なりにすごい変化だと思います。世の中叩きまくる人が多いですけど……って、これはマスメディアのせいもあると思いますけどね。上げておいて、何かあると叩いて、ジ・エンドにする。その人には、その後の人生があって、向き合っていかなきゃならない。でも「頑張ってるね」というのは表さない。 ――耳が痛いです。 高知:だから余計に、この作品の役割、メッセージはすごく意味があると思う。諦めるなと。お前誰だよというやつからの「もう終わり」という言葉に自分をはめない。目の前に見える人たちに謝って、そこから明日を向いて「ありがとう」に変えていくのはオレ次第なんだから。 ――なるほど。 高知:自分らしく、自分を大事に生きるというのは、傲慢に生きるとかわがままに生きることじゃない。自分を大切にできなきゃ目の前に大切な人ができたときに、大切さを分かち合えないからね。いまは、この2~3年前に、やっと大人になれた。成人式を迎えた気分かな。 <取材・文・撮影/望月ふみ> 【望月ふみ】 ケーブルテレビガイド誌の編集を経てフリーランスに。映画周辺のインタビュー取材を軸に、テレビドラマや芝居など、エンタメ系の記事を雑誌やWEBに執筆している。親類縁者で唯一の映画好きとして育った突然変異。X(旧Twitter):@mochi_fumi
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