<最も孤独感が強いのは20代>子ども時代を“置き去り”にした若者たちが増える理由
一方で、近代合理主義の象徴でもあるニュータウンの団地では、40%近くの子どもが公園で遊んでいると「警察に通報されたことがある」という経験をしていました。団地は、基本的に二世代までしか住むことができないので、祖父母と孫の世代が断絶し、「子ども=よその子」になる。そんな子どもたちが遊んでいて、少し騒いだりすると「うるさいからなんとかしてほしい」と警察に通報するのです。結果として子どもにもフラストレーションがたまるばかりでなく、遊び場は自然と失われてゆく運命にあるのです。
子ども時代にしておくべき野生的な体験
現代の日本社会は、サービス化が行き届いた快適な社会です。そのため(面倒な)人間関係を築かなくても、困ったことがあれば、「サービスはお金を出して買えば良い」という発想をしがちです。例えば、「地域で除雪や草むしりをしましょう」となっても、「業者に頼めばよい」となるのはその典型です。その結果、「共同の世界」が失われてしまいます。ちょっとしたことでもいい、何かをみんなで手作業をすれば、そこには顔の見える共同の世界、相互性が生まれます。 お祭りはその典型であり、地域のメンバーシップがなければ運営することはできません。子ども時代は参加者として楽しみ、青年になれば運営側に、老年にはサポート役になる。世代によって役割があり、そのような「共同の世界」を過ごすことによって、「生きる手応え」を感じ、持続可能な祭りを営むことができるのです。 「共同の世界」とは、完全にプライベートでも、パブリックでもない、いわば「中間の世界」です。では、その前後には何があるのか。一つは「機能性重視の生産性・有用性の世界」です。ここは、秩序・制度・機能・サービスによる交換が可能で、成果主義と所有の世界です。もう一つは「生命性・存在性の世界」です。ここは、自然・他者・事物との直接的なふれあいと交流が大切にされる世界です。 現代は、「機能性重視の生産性・有用性の世界」が中間世界を侵食し、「生命性・存在性の世界」が小さくなっていると言えます。近代化が進む中で、世界はより機能化を進め、人間を工場の部品のように個人化させ、交換可能な存在として呑み込もうとしているように見えます。経済界・産業界は、世界をより効率化し、生産性を高めるために、子ども・若者により高度で抽象的な能力期待をかけてきています。例えば、1990年以降、政府・業界団体の掲げる能力期待の名称を見ると「リテラシー」「キー・コンピテンシー」「就職基礎能力」「21世紀型スキル」といったものが並びます。私には、子どもをまるで機械のように見立てているようにしか見えません。『ドラえもん』の「のび太」のようにダラダラして過ごす、言い方を変えれば、自由に空想する時間すら確保することができなくなっているのです。 大人社会の目的志向、効率志向はますます強まり、子どもにもその(悪)影響が及んでいるのは明らかです。例えば、『学習プログラム』は役に立つかどうか、できるかどうか、という体験の有用性に力点が置かれています。