故郷への思い、そして未来。マンガ家・永井豪、能登半島復興への"道標"を語る!
その中の怪物のような変な形の魚を好んで観察して、「ごっついな~」「気味が悪いな......」なんて思ったり。 それと、うちの庭はセミのすみかになっていました。夏になると地面からセミの幼虫が這い出してくるんです。それを捕まえて、幼虫同士を戦わせるんです。で、幼虫を壁に付着させると、やがてサナギになって、ある日それがパカッと割れて羽化する。 セミの成虫は初めは真っ白なんだけど、それにだんだんと色がつき始めていくんです。そういうのを興味深く観察していました。 冬になると氷柱(つらら)が1mくらいになるんです。それを使ってチャンバラごっこをしていました。その氷柱がすぐに割れるんですよ。一瞬で粉々になってキラキラしながら飛び散っていく。それがすごくきれいで、かつ神秘的なんです。 ――怪物のような魚、セミの羽化、氷柱のエピソードを聞いていると、永井先生の作品に登場するデーモンや戦闘獣、それを破壊するシーンを思い出します。 永井 自分で意識したことはないし、ネタにしたつもりもないけど、輪島で経験したことが自然と出ている部分はあるでしょうね。 ――永井先生は輪島で手塚治虫先生のマンガに出合ったそうですね。 永井 幼稚園ぐらいのときに兄が旧制四高(現在の金沢大学)で寮生活をしていて、帰省する際に金沢駅で手塚先生の作品を4冊買ってきてくれたんです。タイトルは『メトロポリス』『ロストワールド』『ファウスト』『拳銃天使』。 それを兄弟で分けようということになった。僕は『ロストワールド』を選びました。まだ幼いから文字もしっかり読めませんから、結局、兄に読み聞かせしてもらっていました。 僕は輪島で手塚作品に出会ってマンガ家を志すようになった。先生の絵を一生懸命、模写したりしていました。輪島でマンガを描いているのは、おそらく僕ひとりだったでしょう。 ■能登半島と輪島には未来がある ――その後、永井一家は、1952年から東京に移住します。永井先生は当時6歳ですが、都会暮らしに慣れるのは大変だったのでは? 永井 当時の東京はそれこそ輪島のように自然に囲まれてはいないけれど、だからといって別世界というほどでもなかったんですよ。昭和27年(1952年)の東京は、まだ戦争の爪痕が残っていた。 その頃、暮らしていたのが東京・大塚で、神社から眺める東京は、大きいビルや建物がなくて、池袋から巣鴨までずうっと見渡せた。空き地が広がっていて、あちこちに粗末なバラックが立っているのが見えました。