【初回は本日放送】大河ドラマ「べらぼう」を3分で予習!蔦屋重三郎が財産の半分を没収された洒落本とは
当時の本は高かったので、貸本屋から借りるのが一般的だった。貸本屋は人気のある本を担いでお得意様をめぐる。時には、さまざまな理由から出版できないものを写し取った写本を顧客のところへ届けることもあった。江戸幕府は、将軍家に関わることや、幕府批判をする本、風俗を乱すような本を発禁処分にしてしまうこともあったからだ。実際、1791年に刊行された山東京伝の洒落本『仕縣文庫』は、風俗を乱すとして寛政の改革の出版取締令に触れ、版元だった蔦屋重三郎は身上半減の処分を受けた。 蔦屋重三郎は錦絵にも手を出し、幻の浮世絵師といわれる東洲斎写楽を世に送り出したことでも知られる。浮世絵の多くがフルカラー木版画の錦絵として発行され、錦絵の完成品をイメージして下絵をつくる絵師、絵師がつくった下絵をもとに板を彫って版木をつくる彫師、版木を使って紙に絵を刷る摺師の分業で制作された。版元は、この絵師・彫師・摺師に絵を注文し、それを市場に流通させる役割を持つ。新人絵師の育成などのプロデュース業も営み、江戸一の敏腕プロデューサーとされたのが蔦屋重三郎だった。 職人と版元の協力によって完成した浮世絵だが、その価格は大判(39センチ×26センチ程度)1枚が24文ほど。現代の価値で換算すると数百円程度だった。初刷(初版)で200枚程度刷られ、2000枚売れればヒットといわれた。江戸のみで流通したことを考慮すると相当な枚数だ。しかし、手ごろな価格と持ち運びやすさから、浮世絵は江戸を代表する土産品としての地位も獲得。幕末には世界に渡り、ヨーロッパではジャポニスムと呼ばれる浮世絵ブームを巻き起こしたことはよく知られている。 (構成 生活・文化編集部 塩澤 巧)