アメリカの報道と日本の報道 公平性をどう考える? 音好宏・上智大教授
何のための公平さなのか
現在のメディア状況の変化のなかで、放送の公平性については、そのあり方について、再考を迫られている。 すでに米国では、1987年にFCC(連邦通信委員会)が、放送におけるFairness Doctrine(公平原則)を破棄している。その根拠となったのは、1984年にFCCと婦人有権者連盟(League of Women Voters)との係争で、米・連邦最高裁判決は、「公平原則の基礎をなす電波の希少性は拡大する通信技術の中において適合しなくなった。むしろ公共の活発な意見交換を妨げている」としたことによる。 それでは、多メディア・多チャンネル化、デジタル化といったメディア環境の変化により、電波の希少性や社会的影響力といった放送免許の制度的根拠が希薄化するなかで、放送における免許制度は不要なのか。これに対して、米国の憲法学者であるリー・ボーリンジャー(Lee C. Bollinger)は、「部分規制論」を提唱し、放送における免許制度の維持を主張する。つまり、規制されないメディアが、規制の行き過ぎを監視する基点となるとともに、規制されるメディアとの間に、ある種の緊張関係を生むことが、言論の多様性、健全性を維持するのに有用との考え方である。日本の識者・専門家のなかでも、このボーリンジャーの考えを支持する者は多い。 いまの急速に変化するメディア状況のなかで、報道における公平性、中立性が議論されるとき、私たちが報道に何を求めているのかを改めて考える必要があるだろう。報道機関にまず求められるのは、丁寧な取材と事実の積み重ねによる、より正確な報道である。その上で、多様な視点や論点が提示され、言論空間で活発な議論がなされることが、民主主義というシステムには必要不可欠なのである。 先に触れたように、放送については、日本を含む多くの先進諸国において、その制度によって、公平性・中立性が制度的に求められている。活字メディアを代表する新聞では、米国に限らず、日本においても事実を歪めないで伝えることを強く含意する「公正」は標榜しても、対立する意見を等しく扱うことを強く含意した「公平」性は唱っていない。ただ、日本の新聞は、新聞社や記者個人の意見を排除し、事実の積み重ねによる報道を至上とした「客観報道主義」を強く標榜する傾向にある。それは経営戦略上、読者層のウイングを広げることにつながるものである。ゆえに、日本の新聞は、世界的に見ても上位に位置する発行部数を維持できたのも確かである。しかし、報道における「公平」さを求めるあまり、結果的に言論空間での活発な議論が抑制されてしまうのであれば、問題だ。その時は、欧米の有力紙に見られるような、客観報道主義を標榜しつつも「オピニオン」を明確に打ち出す姿勢から学べるものは大きいと言えよう。 ------------------ 音好宏(おと よしひろ) 上智大学文学部新聞学科教授。1961年、札幌生まれ。上智大学大学院博士課程修了。日本民間放送連盟研究所、コロンビア大学客員研究員などを経て、2007年より現職。衆議院総務調査室客員調査員、NPO法人放送批評懇談会理事長なども務める。専門は、メディア論、情報社会論。著書に『放送メディアの現代的展開』などがある。