ニーチェは「『世界』は存在しない」と主張したのか?…ニーチェの認識論と存在論の正しい理解
「客観」は主体から主体へはたらきかける一種の作用
個々の人間は、それぞれ自分の身体や欲望に応じて自分の「世界」を生きている。つまり各人は、自分に独自の世界を生成している。しかし人間だけは、言葉を使って互いに自分の生きる世界を交換しあう。そのことで、他者たちも自分と同じような世界を生きていることを知る。 このことが人間だけに「客観世界」という独自の「想定」をもたらすのである。 すなわちニーチェの認識論、存在論では、「客観存在」とはなんら実体的な存在者ではなく、ただ、世界を経験する個体(主観)と個体(主観)の関係によって生み出された、一つの想定にすぎないのである。つぎの引用がカギとなる引用である。 「客観」は主観から主観へとはたらきかける一種の作用にすぎず……主観の一様態であるとの仮説。(『権力への意志』下、原佑訳、ちくま学芸文庫、104ページ、§569) この箇所でニーチェが言わんとしていることは、後で、間主観性の解説で出てくるヴィトゲンシュタインの「かぶと虫」の話とぴたりと符合しているので、そこでもういちど確認してほしい。 要するに、「客観世界」それ自体、つまり「物自体」は、誰にも経験されることのない世界であり、それゆえ実在せず、人間だけがもつ共有された「想定」の世界なのである。
ニーチェの認識論、存在論を総括すると
ニーチェの認識論、存在論を総括するとこうなる。 「存在それ自体」というものはそもそも背理である、「存在するもの」とは「存在者」自体ではなく、どこまでも、生き物、その欲望─身体、生の力、力への意志に応じて「経験されるもの」、つまり「諸性質」「諸関係」「時空性」、その意味と価値の現われの総体にほかならない。 事物それ自体というものはない。世界それ自体というものもない。それらは、本来、「生き物」の生とその経験の相関者である。そして人間だけがその経験を言語によって共有し、世界それ自体、客観それ自体という「想定」を共有する。 世界はさまざまに解釈できるという相対主義の世界観は、まず世界自体を前提し、そこにさまざまな視点の存在を想像することで可能になっている。ニーチェの思想は、こうした相対主義的遠近法の見方を逆転したものであり、一切の存在が、生の力の相関者であるという未曽有の思想なのである*。 【*仏教哲学の『中論』(ナガールジュナ)などにこれと似た「相依性」の概念があるが、じつはここでは「真理」の観念が絶対的に前提されている。】 さて、多くの人はこう問うかもしれない。ニーチェは「本体論」を解体した。ではニーチェは「世界」はじつは存在しないと主張するのか、と。 もちろんそうではない。 「世界はじつは存在しない」という論証なら、すでにゴルギアス以来、無数の思弁的論証がある。それは相対論理を習い覚えれば誰でも作り出せるような数あるキベン論の一つにすぎない。 「世界それ自体」「物自体」が存在しないとは、「世界それ自体」「物自体」「客観自体」という観念の虚妄を指摘するのであり、世界の存在を否定したり、論証したりするのではない。このことが十分に理解できれば、ニーチェ思想のエッセンスをつかんでいることになるが、これにはもう一段まわり道が必要である。 世界の「本体」は存在しない。「物自体」「客観自体」も存在しない。しかしそれは「世界」の非存在を意味しない。この考えは、ニーチェの「力相関性」の思想がフッサールの「客観性」の背理の考えに受け継がれ、世界認識とは「共通確信」の成立であるという現象学の認識論にまで進んだとき、はじめて完全に理解されることになる。 現代哲学において、フッサールだけがこのニーチェの「本体の解体」の思想を相対主義ではない仕方で受け継いだ(直接の影響関係はない)。「本体論の解体」という土台の上で、いかに哲学的な普遍認識の可能性を見出すことができるか。 以後われわれは、フッサールが、主著『イデーン』において現象学的還元という方法をどのように展開したかを、詳しく見ることにしよう。
竹田 青嗣、荒井 訓
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