乗客との会話で“悲劇の人”を演じた自分にハッとした…今も胸に刻む初老の紳士の言葉【タクシードライバー哀愁の日々】
【タクシードライバー哀愁の日々】#15 ご存じの方もおられるだろうが、タクシー業界ではお客を乗せている状態のことを「実車」と呼ぶ。長くこの仕事をやっていても、実車中のドライバーはそれなりに緊張を強いられる。なんといっても、ほとんどのお客とは初対面。乗せるお客が怖い人、変な人、面倒な人ではないかという不安が消えることはない。 【シリーズ初回】親子経営の会社が倒産…借金に追われ家も失い、残ったのは「運転免許」だけだった もちろん、乗車して行き先を告げるときの言葉遣いや物腰で、杞憂に終わることがほとんどだがお客によっては緊張を強いられることもある。幾度となく修羅場をくぐり抜けてきた人、あるいは生まれながらにして度胸の据わった人なら別だろうが、私のようにいたって気が弱く、いさかいが苦手なタイプは、やはり実車中は緊張する。 たわいもない世間話でもして、打ち解けられればいいのだが、私の勤めていた会社では、挨拶、行き先の確認以外では、ドライバーのほうから話しかけてはいけないというルールがあった。私自身、決して人嫌いではないから、お客から話しかけられれば喜んでしゃべるのだが、このルールを守ってこちらから話しかけることはしなかった。 だから「運転手さん、怒ってるの?」とか「機嫌悪いの?」などと尋ねられることも何度かあった。そんなときは「申し訳ありません」と平謝りし、会社のルールを説明してお客の誤解を解いたこともあった。自分の不安どころか、お客を不安にしてしまったことを恥じたものである。 逆のケースもある。行き先を告げた後、終始無言だったある女性客から目的地近くになってこう言われた。 「運転手さんが静かな人でよかった。ちょっと考え事をしていたから、話しかけられたらイヤだなって……。ありがとうございました」 当時、私は還暦を過ぎていたが、無言を感謝されたのは、生まれてはじめての経験だった。おまけに「少しですけど、お釣りはけっこうです」と言って降りて行った。「沈黙は金」のエピソードである。 ■「その倒産、運転手さんにも責任がありますね」 心に染みる言葉をもらったこともあった。まだタクシードライバーを始めて間もないころのことだ。70代後半とおぼしき紳士。都内から横浜までのお客だったが、話し好きなのだろう。私がタクシードライバーになったいきさつを尋ねてきた。言葉遣いといい、物腰といい、好感の持てるご仁だった。私は、社長だった父親の株式投資失敗による家業倒産の経緯などを話し、50歳にしてタクシードライバーになったことを話した。 30分ほど静かに私の話に耳を傾けていたお客だったが、目的地が近づいてきたころ、穏やかな口調でこう言った。 「運転手さん。大変でしたね。でも倒産は突然ではなく、予兆があったはずですよね。ちょっと厳しいようだけど、それに気付かなかった専務の運転手さんにも責任がありますね」 その男性客は、私の語りの中に、責任を一方的に父親に押し付け、どこかで自分を「悲劇の人」に仕立て上げている空気を感じ取ったのだろう。思わずハッとするような言葉だった。降りるとき、彼は私にこう言った。 「覆水盆に返らずですが、その経験を今後に生かしていけばいい。あなたはまだ50代なのだから」 以来、ちょっと大げさな物言いになるが、私は彼の言葉を胸に刻んで仕事を続けてきた。「いつかもう一度会いたい」と願ったが、実現することはなかった。後になって「名刺をもらえばよかった」と悔やんだものだ。ドライバーとお客という「一期一会」には、ときに学びもある。 (内田正治/タクシードライバー)