ブライアン・イーノとジャズの関係とは? 鬼才たちと実践した「非歓迎ジャズ」を再検証
「非歓迎ジャズ」の実践
1990年代へ下ると、「イーノとジャズ」という論点において更に重要なキーワードが登場してくる。それは、イーノ自身の1995年の日記に登場する「非歓迎ジャズ(=Unwelcome Jazz)」という用語だ。どうやらこれは、もとをたどれば1991年にリリースが予定されていたがお蔵入りとなってしまったアルバム『My Squelchy Life』制作にあたって録音された摩訶不思議なエスノ風ジャズ曲「Juju Space Jazz」のコンセプトが発端となっているようだ。同曲は結局、『My Squelchy Life』の発売中止をうけて急遽制作された『Nerve Net』(1992年)に収録されることになった。これらのうち特に『Nerve Net』は、当時勃興していたテクノやハウス、ブレイクビーツの要素を大幅に取り入れたサウンドとなっており、イーノのディスコグラフィーの中でもやや特異な位置を占める存在といえる。しかし、その後10年あまりをかけて取り組まれていく「非歓迎ジャズ」の実践の端緒という意味でも、大変興味深い内容なのだ。 イーノはここで、歴戦のセッションミュージシャンを集め、彼らに矛盾した指示を与え、いわゆる「グルーヴ」の自然的発生からあえて逃れさせるようなディレクションを行った。これはまさに、かつてワイアットに教えられたエレクトリック・マイルスのアンサンブルの秘訣を、イーノ流に消化・発展させた、いびつなジャズ(風の何か)の実験といえるだろう。実際に、『My Squelchy Life』と『Nerve Net』で試みられたサウンドと、7年後の『Sushi. Roti. Reibekuchen』に、地続きの印象を見出すのはさほど難しくない。 その後、イーノ流「非歓迎ジャズ」への取り組みは、1997年のアルバム『The Drop』で最初のピークを迎える。もともと、ズバリ「Unwelcome Jazz」をタイトルに冠す予定だったという同作は、リリース当時には長年のイーノ・ファンすら悩ませる、文字通り「歓迎されない」ものであった。事実、マハヴィシュヌ・オーケストラからの影響だといういかにも難渋なメロディーが得意のアンビエントサウンドの上を回遊する様は、なるほどその音楽的な意図が簡単には測りづらいものになっていると感じる。しかし、その一方でベースのフレーズにアフロビートからの影響が聴かれたりと、イーノらしいポスト・ワールドミュージック的なポップネスも確認できる。 この異色作を改めてじっくり鑑賞すると気付かされるのは、とどのつまり「非歓迎ジャズ」とは、ジャズの一般的概念を外部的視点から解体・再構築し、クリシェとしての「ジャズ性」からできるだけ離れつつも、その異化作用の逆噴射でもって再びジャズの姿形へと舞い戻ってくるような、極めてハイコンテクストな実践のあり方を指しているのだろう、ということだ。現代音楽を修め、メタ的なグラム・ロックと戯れ、非音楽と音楽のあわいを通り抜けてきた「ノン・ミュージシャン」たるイーノならではの、非ジャズ的ジャズ。そう考えれば、「非歓迎ジャズ」というコンセプトを打ち立てたイーノが、縦横無尽な編集とグルーヴの抑制・拡散によって非線形的なグルーヴを逆説的に編み出すという「ジャズの自己否定」というべき挑戦を重ねてきたエレクトリック・マイルスの作品群に並々ならぬ刺激を受けてきたという事実にも、改めて得心がいくのである。