ホンダとの統合検討で話題沸騰中!! 何度も倒産寸前で世間をお騒がせ!!!! [日産]の歩みを今一度おさらい
■業界を騒がせたプリンス自動車との合併劇
さらなる飛躍を目指して、日産は1962年11月にオート三輪の分野で名を知られ、コニーを開発・販売していた愛知機械工業と技術提携を締結。1965年には本格的な業務提携へと発展させた。 愛知機械の販売系列を使って「日産コニー店」を立ち上げ、「チェリー店」や「パルサー店」に引き継がれる。自社ブランドの生産から撤退した後も、エンジンやトランスミッションを手がけ、セレナやラルゴ、サニートラック、パオなどの生産も行った。CVTやR35GT-RのGR6型DCTも愛知機械製だ。 同じ時期に画策したのが、自動車業界3位の座を争っていたプリンス自動車工業との合併劇である。飛行機屋を自認するプリンス自動車は高い技術力を誇り、スカイラインとグロリアだけでなく天皇の御料車のロイヤルも試作していた。 レースでも群を抜いて速かったが、経営状況は苦しかったのである。苦境を乗り切るため首脳陣は提携先を探っていた。日産は大手銀行の仲介を伴い、極秘裏にプリンス自動車の首脳陣と接触し、説得に当たっている。 そして1965年5月、日産はプリンス自動車との合併覚書に調印することに成功した。翌1966年8月には、会社組織すべてを日産に吸収する形で合併を終えるのである。これ以降、グロリアもスカイラインも日産ブランドの一員となり、パーツの共用化も増やした。 また、メインバンクが同じ富士重工業(現・スバル)とも1968年に業務提携を結んだ。1970年代になると、日産のチェリーやパルサーなどの委託生産を請け負わせ、工場稼働率を高めている。両社は蜜月の関係にあり、一部は部品の共用化も行った。 だが、1990年代後半に日産の業績が一気に悪化してルノーにすがったため、1999年に提携を解消している。
■カルロス・ゴーンの失踪と迷走劇の再開
日本は1991年にバブルが崩壊し、自動車の販売は落ち込んだ。日産は積極的な海外進出が重荷となり、ヒット作もなかったために資金繰りに行き詰まる。経営破綻を避け、再起を図るためにダイムラー・クライスラーの資本を受け入れようとしたが、断られてしまう。 紆余曲折の末に救いの手を差し伸べたのが、フランスのルノーだ。カルロス・ゴーン氏が派遣され、CEOに就任するとコスト削減と人員整理に大ナタをふるっている。 ルノーの連結子会社となった日産は、軽自動車の販売に乗り出した。2003年に三菱からOEM供給の形で持ち込まれたクリッパーの販売を開始。2005年にはeKワゴンをオッティの名で発売している。 その三菱が燃費偽装問題で苦境に立たされたのを見て、日産は2016年5月に戦略的アライアンスを締結。日産は三菱自動車株34%を取得して筆頭株主となった。 だが、この直後に日産を引っ張ってきたゴーン氏が失脚し、日産は方向性を見失ってしまう。ブランド力は著しく低下し、長期的な成長戦略も見えなくなっていた。そのため北米市場だけでなく、中国市場でも販売は低迷する。またしても倒産寸前の危機に瀕したのだ。 日産は経営の立て直しを図るために、他メーカーとの提携や合併を模索するようになった。そして2024年12月、ホンダとの経営統合を検討を発表。将来的には三菱自動車が合流する可能性についても明らかにしている。 日産は90年数の間に多くの会社を吸収しては、世界有数の自動車メーカーにのし上がったが、これが対立の構図も生み出している。派閥争いや権力争いが常態化し、罪をなすりつけて誰も責任を取ろうとしない。この悪習を断ち切り、グループ一丸、全社一丸となって立て直しを成し遂げてほしい。