大阪桐蔭へリベンジ誓う公立進学校・寝屋川高の異彩を放つ“高偏差値野球”
リベンジの夏―――。 藤原が、「できれば桐蔭とはもう一生やりたくない」と、冗談とも本気ともつかぬことを言うと、横から主将が、「やりたいって言えよ」とつっこんだ。 「根尾ってオーラがやばいっす。どこに投げても打たれそうだった。空振りするとマウンドまで音が聞こえるんですよ。あいつ振った後にバットを戻すんですけど。ブォン、ブンって、2回音がするんです」 それでも藤原は根尾から2三振を奪った。 藤原が言う「やりたくない」は、大阪桐蔭を追い詰めたことが自信ではなく過信に変わることへの戒めである。一貫田は、こう言い聞かせる。 「今は、怖さが大きい。あの試合をしたことで、おれらいけるやん、という雰囲気のまま夏を迎えて負けるのが怖い。それがないようにみんなに言っています」 筆者は寝屋川高校野球部OBで彼らの30年以上先輩にあたる。1957年(昭和32年)に夏の甲子園、センバツ甲子園は1956年(昭和31年)、1957年(昭和32年)と2度出場経験のある古豪で、夏の甲子園では2回戦で早実の王貞治氏にノーヒットノーランを達成された。だが、栄光は、とうの昔の話。筆者の時代は、練習だけは伝統を引き継いで厳しいが大阪大会で一つ二つ勝てれば御の字という進学校だった。 今なおグラウンドは、ラグビー、サッカー、陸上部との併用で、彼ら曰く「陸上部のトラックが三遊間あたりまであって、しょっちゅう練習が中断する」という状況。放課後に満足に練習できない環境も、ユニホームの帽子のデザインも昔から変わっていない。現在は、午後18時完全下校が徹底されており、放課後の練習は、午後17時30分には終了。テストなどの期間も一切練習はできない。 その進学校が、なぜ変わったのか。10年前に監督就任したOBの達大輔監督(40)の指導力が大きい。 その限られた練習環境で私立の強豪と、どう戦うか、を突き詰めてきた結果、導かれたのは頭を使って考える“偏差値の高い野球”だ。 「練習量では勝てない。だから自分らで、どうすれば勝つかを考える。データを集めて分析し癖を見つけ、サインを読む。頭を使うしかない。この子らは、勉強ができる子らだから、知らない知識を与えてあげるといろんな発想が出てくる。その観点に興味を持って自分らでやる。彼らは凄いですよ。こちらも、手を変え品を変え、うまく生徒を錯覚させながらですけどね」 達監督は投打の技術指導を行わない。 毎年、入部した新入生に「勝ち方は教えるが、技術は教えられない」と宣言して驚かれる。 「僕みたいに打撃センスのなかった人間が教えても説得力がない。ピッチャーもやったことはありませんからね。生徒が自分で考えたほうがいいんです。ヒントは与えますが、それだけです」 達監督は寝屋川から神戸大へ進み、硬式野球部でキャッチャーとしてプレーしてきた。技術指導はできるがあえて行わないのだ。 主将の一貫田に聞くと「自分で考えろということなんです」。 「チームに何を求められているか、どういうバッティングをすれば達先生に使ってもらえるかを一人ひとりが考えて、弱いところを練習で潰していくんです」 フリー打撃ができるのはグラウンドの空く朝練だけで1人1分半の10スイングほど。打撃マシンも「140キロに設定したらどこに飛ぶかわからない」という代物で135キロくらいに設定してある。ただ昼休みには、ティー打撃をいろんな形状のバットを使って行い、しっかりと振り込んでフォームを固める。