ケガがなければ…”ガラスのエース”と称される投手5人
館山昌平
数多く右肘にメスを入れ、幾度となくマウンドへ帰還した不屈の右腕・館山昌平。彼のプロ野球人生は、まさに怪我との闘いと言っていいだろう。 日本大から入団した館山は、1年目の2003年から先発としての登板機会を得る。ただ、初勝利を挙げることはできず、2004年のキャンプで右肘を痛めて右肘靱帯再建手術(通称:トミー・ジョン手術)を受けた。同年は一軍登板なしに終わったが、翌2005年に復帰すると、プロ初勝利を含む2桁10勝を記録した。 その後は先発、リリーフの両輪で登板を重ね、先発に専念した2008年は12勝3敗、勝率.800、防御率2.99の成績で最高勝率のタイトルを獲得した。同年から5年連続2桁勝利をマークし、2009年には最多勝(16勝)を戴冠。防御率も2点台を記録することが多く、右のエースとして高い安定感を誇った。しかし、2013年シーズンの開幕直後、再びトミー・ジョン手術を受けることとなった。 2014年にも3度目の手術を決断。苦しいリハビリが続いたが、館山は再びマウンドに帰ってきた。2015年6月28日の巨人戦で、814日ぶりの一軍復帰登板。同年は6勝を挙げ、ヤクルトのリーグ優勝に貢献した。2019年限りで現役を引退した館山。度重なる困難を乗り越え掴んだ通算85勝は、誰よりも重みのある勝利数ではないだろうか。
与田剛
プロ1年目から中日の守護神を任された与田剛は、「リリーフエース」として強いインパクトを残した。 亜細亜大時代に目立った活躍こそなかったが、社会人野球のNTT東京でプレーを続行。すると、国際親善試合の日本代表入りを果たすなど急激な成長を遂げた。1989年のドラフトでは、中日から1位指名を受けた。 150km/hを超える剛球を武器に、1年目から抑えとしてフル回転。31セーブを挙げて最優秀救援投手(現・最多セーブ)と新人王を同時受賞した。しかし、50試合登板で88イニングを投じ、翌年以降は苦しいシーズンを過ごすことになる。 1991年は背筋痛の影響を受け、登板数は29に減少。翌年は41試合登板で23セーブと復活したが、1993年には両足首を故障。その後も度重なる怪我に悩まされた与田は、ロッテ、日本ハム、阪神と移籍を繰り返したものの、ルーキーイヤー以上の輝きを取り戻すことはできなかった。