ケガがなければ…”ガラスのエース”と称される投手5人
プロ野球の世界には、いつの時代にも離脱さえしなければ球界を代表する選手であろうという「ガラスの天才」がいる。特に投手においては、肩や肘の故障により、誰もが認めるポテンシャルを持ちながら、本来の投球ができない悲運な投手が数多く存在する。今回はガラスのエースを紹介する。
斉藤和巳
ダイエー、ソフトバンクの絶対的エースとして君臨し、2003年には日本一の原動力となった斉藤和巳。南京都(現・京都廣学館)高からドラフト1位で指名された斉藤は、プロ2年目に一軍デビュー。しかし同年は、1試合登板、防御率27.00と結果を残すことはできなかった。 伸び悩むシーズンが続いていた斉藤だったが、2000年に5勝をマーク。翌年は右肩痛に苦しんだが、2002年は10試合登板ながら4勝1敗、防御率2.94と飛躍のきっかけを作った。そして2003年、エースとして覚醒した斉藤は、20勝3敗、勝率.870、防御率2.83という脅威成績を残し、日本一に大きく貢献。自身は最優秀防御率、最多勝、最高勝率、さらには沢村賞などを受賞した。 2004年は不振に陥ったが、2005年は本来の実力を発揮。さらに2006年は26試合(201回)を投げ、18勝5敗(うち5完封)、勝率.783、205奪三振、防御率1.75と傑出の数字を並べ、投手5冠と2度目の沢村賞に輝いた。しかし、2007年は登板数を減らし、翌年は3度目となる右肩手術を決断した。 その後、長い期間を要してリハビリに励んだ。2011年には三軍リハビリ担当コーチに就任。以降も選手としての復帰を目指していたが、念願は叶わなかった。現役最後の一軍登板は、2007年クライマックスシリーズ(CS)第1ステージ初戦の先発マウンド。まさに、記憶に残るエースだった。
伊藤智仁
先発・リリーフの両輪で活躍したヤクルト・伊藤智仁も、”ガラスのエース”と言える1人だろう。社会人野球・三菱自動車京都(現在は廃部)でプレーしていた1992年には、バルセロナ五輪の日本代表に選出。1大会(3試合)27奪三振の快投を披露し、銅メダル獲得に大きく貢献した。 大きな期待を背負って入団した伊藤は、1年目からエースとして君臨。夏場に離脱して規定投球回には届かなかったが、14試合(109回)を投げ、7勝2敗、5完投4完封、126奪三振、防御率0.91と圧巻の成績を残し、新人王に輝いた。 しかし、ルーキーイヤーに痛めた右肩の状態が思わしくなく、翌年から2年連続一軍登板なし。その後はリリーフに活路を見出し、1997年は34試合登板で7勝2敗19セーブ、防御率1.51と復活を遂げ、カムバック賞を受賞した。 1998年からは先発に復帰し、3年間で22勝を挙げたものの、2001年に右肩・肘痛が再発。リハビリに努めて2003年の2軍戦で登板を果たすが、満身創痍の状態だったことは明らかだった。同年限りで引退を表明した伊藤。2021年からはヤクルトの一軍投手コーチに就任し、指導者として日本一達成に尽力した。