アニメやドラマで注目「遊郭」 佐世保にも残る面影…勝富遊郭で過ごした住民、語る暮らしと今
性病が流行…生き延びた遊郭
2021年から佐世保市勝富町の自治会長を務める牧島伸興さん(71)は「戦争のたびに兵隊が佐世保に集まり、遊郭ができた。佐世保の遊郭史は戦争の歴史とも言える」と話す。 第2次世界大戦後、国策として占領軍用の慰安所「特殊慰安施設協会」(RAA)が設立。東京から始まり、佐世保でも市中心部の山県町に慰安施設が置かれた。結果、占領軍兵士の間で性病が流行。1946(昭和21)年3月、連合国軍総司令部(GHQ)は軍人にRAA施設への立ち入りを禁じた。 同年、GHQは日本の公娼(こうしょう)制度を廃止。しかし、するりと規制をかわすように、戦前から特殊料理屋と呼ばれていた貸座敷は特殊飲食店へと改称し、遊郭だった場所は特殊飲食店街(赤線)として生き延びる。 50年、朝鮮戦争が始まり、佐世保の町は戦争特需に沸いた。「建設省編戦災復興誌第八巻」には、県の戦災復興土地区画整理事業で勝富町に6千坪の土地をあっせんし、山県町から移転させたとの記述がある。観光都市として市中心部の繁華街からは離れた場所に赤線を移したかったようだ。 牧島会長が生まれる約半年前の52年6月、勝富遊郭は「勝富楽園」として戦災からの復活を果たした。牧島さんの家も戦後、勝富町で特殊飲食店を経営していた。悲しい女性史が存在したことは否定しないが、「働く女性たちは虐げられていたというのが現在の遊郭に対する見方だけど、女性たちは職業として割り切っていた」とも話す。
「遊女だと間違われたことも」
時代の波に翻弄(ほんろう)されながらも繁栄と衰退、復活を繰り返してきた遊郭だが、ついに終焉(しゅうえん)を迎えることになる。56年に売春防止法が公布、翌57年4月1日に施行された。罰則施行は翌58年4月1日からで業者には1年間の猶予が与えられた。県内では58年3月15日、479の業者が一斉廃業。復活したのもつかの間、わずか6年弱で勝富町から“紅灯”は消えた。 勝富町に住む廣瀬淳子さん(87)は59年、前年まで特殊飲食店として営業していた旅館「廣喜屋」に嫁いできた。「まだ遊郭の名残があったからか、知らない人から遊女だと間違われたこともある」と笑顔で振り返る。 夫の祖母トキさん(79年に84歳で死去)は戦前から勝富町で遊郭「廣喜屋」を営み、戦後の山県町からの赤線移転で戻ってきた。廣瀬さんがお見合い結婚で夫と結ばれたのは、トキさんに気に入られたから。「あなたがこの店の大黒柱になるのよ」と言われ、期待に応えるよう朝から晩まで働いた。 売春防止法施行後、全国の赤線では旅館に転業する店が多く、勝富町も例外ではなかった。廣喜屋は70年代まで旅館として修学旅行生や一般客を受け入れた。58年以降に同町の転業者たちは旅館組合を結成したものの、「男性たちは派手に遊び仕事は何もしなかった」と廣瀬さんは苦笑する。佐世保おくんちの日はきれいな着物を着て出掛ける家族を横目に一人家事に追われていたと言う。 牧島会長の家も58年以降は「福家旅館」として営業していた。製薬会社の営業社員が佐世保市内の病院を回るため、月曜から金曜まで旅館に泊まっていた姿が印象に残っている。年月がたち、後継者不足や市中心部に現代的なホテルが建つようになって旅館街としての色合いは薄れていった。