「もう一人の杉原千畝」 究極の利他を実践、6万人もの日本人を救った「義士」がいた #戦争の記憶
残暑の厳しい中、やっとの思いで辿り着いた避難先の街で、疲労困憊し、ほぼ無一文になっていた避難民を待ち受けていたのは、深刻な住居、食料の不足だった。例えば、終戦前には一般邦人の数が約1万2000人だった咸興の街には、1945年10月時点で、その倍以上の約2万5000人もの避難民が流入し、貧困者で溢れかえった。 栄養失調と劣悪な環境下での集団生活。冬が近づくにつれて発疹チフスなどの感染症が猖獗(しょうけつ)を極めた。咸興では同年8月から翌年春にかけ約6300人が死亡した。6人に1人が命を落とした計算となり、北朝鮮で最悪の惨状を呈した。
立ち上がったのは、警察にマークされていた「異端の人」
そのような苦境において、咸鏡南道、咸鏡北道に取り残された日本人を日本本土に引き揚げさせるため、南朝鮮に次々と集団で脱出させた人物が北朝鮮にいた。その名を松村義士男(ぎしお)という。 日本人の引き揚げ史に詳しい駒澤大学文学部教授の加藤聖文の著書『海外引揚の研究──忘却された「大日本帝国」』によると、日ソ開戦前、咸鏡南道、咸鏡北道に住んでいた日本人は旧厚生省の推計で約14万人、北朝鮮の日本人全人口の6割近くを占めていた。その両地域から在留邦人を大量脱出させる工作で、中心的な役割を果たしたのが松村だった。 松村は、戦前には労働運動に加担したなどとして治安維持法違反で、2度にわたり検挙された元左翼活動家だった。このため、北朝鮮の新政権の中には、かつて共に辛酸を嘗めた共産主義者の知己が多く、こうした人脈を生かして日本人救済に尽力した。 私の手元には背広姿で頬杖を突く松村の写真がある。武骨な雰囲気を湛え、天然パーマがかかったような短髪に大きな鼻、濃い眉毛に切れ長の細い目をしている。その瞳には強い意志が宿っているように見える。
難民の救済といえば、第2次世界大戦中にナチス・ドイツの迫害から逃れたユダヤ難民に「命のビザ」を発給し、約6000人もの命を救ったとされる外交官の杉原千畝が有名だ。 一方、咸鏡南道、咸鏡北道の都市から列車や船によって集団で南下した日本人の数を集計した資料を総合して推算すると、松村が直接・間接的に脱出を手助けした人の数はおよそ6万人に達するとみられる。 松村は当時、34歳という若さであり、一介の民間人に過ぎなかった。しかも戦前には、治安当局の弾圧に遭い、世間からは「アカ」と白眼視された“アウトサイダー”だった。 そんな人物がなぜ、敗戦によって日本が国家としての主権を失い無力だった状況で、在留邦人を引き揚げさせるために身を賭したのか──。その点に私は興味が湧いた。 それから間もなく80年。彼を知る人は極めて少ない。だが、杉原に劣らぬ功績を残しながら、このまま忘れ去られていくのは、あまりに惜しい。 *** ※『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部抜粋・再編集。
デイリー新潮編集部
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