学歴差別ない軍隊に見た“疑似デモクラシー” 清張「百済の草」と「走路」
貧しい家庭に育った松本清張は板櫃尋常高等小学校を卒業したのち、職業紹介所を通じ、給仕として就職をしました。その後、印刷工から朝日新聞九州支社の広告図案の仕事をしながら、読書をたしなみ、将来は小説家になることを夢見ました。これらの仕事は独創性を必要しなかったため、清張の心は満たされることはありませんでした。当時は貧しい者が這い上がるチャンスは少なく、清張も学歴には大きなコンプレックスを抱いていました。 清張は教育召集のため軍務に服したのち、衛生兵として戦地に赴きました。自らの軍隊体験を通して、清張が見たものとは、感じたこととは何だったのでしょうか。ノートルダム清心女子大学文学部教授の綾目広治さんが解説します。
学歴差別に傷つく清張が新鮮に感じた軍隊の“疑似デモクラシー”
松本清張は昭和18年10月から3カ月間の教育招集を受け、翌年の19年6月に再招集されて衛生二等兵として朝鮮半島に渡り、竜山での軍務の後、昭和20年4月に朝鮮南部の井邑(せいゆう)に転属している。復員したのは20年10月であった。後に自伝の『半生の記』(昭和38年8月~40年1月)で清張は、自らの軍隊体験を振り返って、次のようなことを述べている。一般的には兵営生活は人間性抹殺であるように思われているが、自分はそれとは「逆な実感を持った」のであって、それまで勤めていた新聞社と違って、「ここではとにかく個人の働きが成績に出る」のであり、そこに「奇妙な新鮮さを覚えた」、と。 普通には奇異な発言と思われるかも知れないが、これは旧日本軍の一面をよく捉えている発言である。丸山眞男は、飯塚浩二著『日本の軍隊』(岩波同時代ライブラリー、平成3年11月)に収録されている鼎談の中で、日本の軍隊は「社会的な階級差からくる不満を緩和する役割を果たした」と述べ、さらには軍隊は「擬似デモクラシー的な基礎を持って」いたと語っている。一般社会での学歴差別に傷ついていた松本清張にとって、学歴など問題にしない軍隊は、「新鮮さ」を感じさせる組織だったわけである。それが「擬似デモクラシー」であったとしても、である。