誰が地元を離れ、誰が地元に残るか──地方圏から大都市圏へ流出人口の変容
1930・40年代生まれはきょうだい数の多い世代
1950・60年代の高度経済成長期に人口移動の中心となっていたのは、1930・40年代生まれの世代でした。この世代は人口転換(*2)における多産少死世代に相当します。多産少死世代は前後の世代に比べて人口規模が大きく、成人するきょうだい数が多いという人口学的な特徴を持つ世代です。日本の場合、団塊の世代や第1次ベビーブーム世代がここに含まれています。 図2は出生年別の20~24歳時の全国人口と、生存する平均きょうだい数を示しています。平均きょうだい数は国立社会保障・人口問題研究所の世帯動態調査(第5回~第7回)の結果を利用しており、調査年が新しくなると死亡の影響を受けるので、新しい調査ほど古い世代の平均きょうだい数は減少しています。ですが、1930・40年代生まれの世代の平均きょうだい数が4人程度だったところから急速に減少し、1960年代以降に生まれた世代では2.4人程度になってほとんど変化しなくなっていることがわかります。この平均きょうだい数の減少は、女性1人が産む子どもの数が減ることによる出生率の低下であり、多産少死から少産少死への転換でした。 ---------- (*2)社会経済の発展に対応して出生率と死亡率が低下するという人口学の経験的理論。死亡率の低下が出生率の低下に先行して起きるため、出生死亡構造が多産多死、多産少死、少産少死というように段階的に変化していく。
後継ぎではない潜在的他出者の流出
高度経済成長期において、地方圏の転出超過が非常に大きくなったのはなぜでしょうか。高度経済成長期には大都市圏で多くの求人があり、さらにその給与水準が地方圏よりも高かったという経済的な要因が大きく影響していることは間違いありません。 ですが、こうした経済学的な発想とは異なるものとして、きょうだい数の多さに着目した考えもあります。その一つ、家族人口学者の伊藤達也氏が提起した潜在的他出者仮説をご紹介しましょう。 日本の家族は長らく、子どものうち1人を後継ぎとして据え、家の継承・世帯の再生産を行うことを重視してきました。家族社会学の用語を使えば、直系家族制規範にもとづく家族形成がなされてきたということです。この直系家族制規範をもとにして、伊藤は地方圏の子どものうち、後継ぎとその配偶者となる者(後継ぎ要員)は出身地に残って親と同居・近居するという選択をするが、それ以外の者は潜在的に家を出るポテンシャルを持った「潜在的他出者」であると考え、その規模によって人口移動の変化を説明しようとしました。これが潜在的他出者仮説です。 潜在的他出者の規模は平均きょうだい数に依存します。後継ぎとその配偶者で2人必要ですから、平均きょうだい数が4人であれば、4-2=2人は潜在的他出者ということになります。 1950・60年代の転出超過は、平均きょうだい数が多く、潜在的他出者も多い多産少死世代が人口移動の中心となる年齢に達したことによって、その規模をより大きくしました。もちろん高度経済成長によって都市部での労働需要が増大したことも影響していますが、きょうだい数が多いという多産少死世代の人口学的条件がそれを支えていたのです。 この時期の地方圏の人口に関する分析からは、後継ぎ要員として必要な数以上の人口が居住していることがわかっています。つまり、この時期の地方圏からの人口流出の中心は潜在的他出者であり、後継ぎ(多くの場合は長男)は地元に残っていたということです。もちろん地方圏の中の地域差もありますし、この時代であっても後継ぎが流出してしまっていたり、親子が同居・近居していなかったりするケースもあっただろうと思います。ですがマクロ的に見て、地方圏内に親世代の人口を支えるのに十分な子世代の人口が存在していました。 1930・40年代生まれの世代は皆婚世代ですから、地方圏では親世代と同数かそれ以上の世帯数が子世代によって形成されることになりました。ですので、これほど大きな転出超過でも地方圏では世帯の再生産ができる条件が維持されていた。別の言い方をすれば、次世代の担い手となる後継ぎ要員は残っていたため、地域社会の持続可能性が維持されていたのです。 また、この時期に大都市圏へ流出した潜在的他出者の多くは、大都市郊外で小規模核家族世帯を形成し、日本社会の核家族化を牽引することになりました。直系家族制規範のもとでは親と同居・近居することが出来ない潜在的他出者が大都市1世として東京圏に転入してきたということであり、その世代の家族形成の結果として生まれた大都市2世が東京圏の人口増加に寄与してきたことは第1回連載にて指摘した通りです。大都市圏の人口も地方圏の人口も、過去に発生した人口移動や家族形成行動と関連しているということがわかります。