「死」は意外と身近にある。大切な人と死別したとき、私たちが「学ぶこと」
故人がいなくても、ひとりで立てる自分に
たとえ大切な人がこの世界を卒業し、違う世界で幸せになっているのだとしても、これまで一緒に過ごしてきた人にとっては、もう話すことも、触れることもできないので、寂しくてしかたないことです。 もちろん悲しいときは思いっきり泣いて感情を吐き出したほうがいいので、我慢はしないほうがいい。でも、しばらく経ったら、「その大切な存在がいなくても、ひとりで立てる自分」になっていくのは、これからまだ生きていく私たちにとっては大切なことだと言えるでしょう。 意外と大切な人が亡くなってからのほうが、より「身近にいるように感じる」と言う人も多くいます。それはどういうことでしょうか? 次のページで紹介します。
不思議な体験を通して感じた「死後の世界」
「死後の世界」や「魂だけの存在になる」ことが、どういうことなのかは、経験したことがないので(覚えていないので)分かりませんが、個人的には、思いを故人に投げかけると、何かしら戻ってくる感じがすることがあります。たとえば、「愛しているよ」と思いを投げると、向こうからも「愛しているよ」という思いを感じる気がします。 私自身はおばあちゃんっ子で、親友のように仲がよかったので、祖母が健在のときは、なにかあるとすぐに電話をしては、おしゃべりを楽しんでいました。 これは「話半分」で聞いていただきたいのですが、もう随分前に「亡くなった方と会話ができる」という、占い師のようなおばあさんがいて、祖母を呼んでもらったことがあったんです。 そのとき、おばあさんの口から、「亡き祖母や身内しか知らないようなこと」を言われて、びっくりしました。決して単なる想像では話せないような内容です。 そして、そのとき亡き祖母からは、「今は、とてもいい場所にいるから、心配しなくていいよ」というメッセージをもらったのです。 それ以来、私は、「死んでも、魂として幸せに生きることができる」のだと考えるようになりました。
あとは、残された私たちの問題
もし亡くなった人は、この世界から卒業し、幸せに生きているのであれば、あとは残された私たちだけの問題です。 極端なことを言えば、大切な人が亡くなるという出来事は、「故人にとって」以上に、「残された人にとっての試練」なのだと言ってもいいのかもしれません。 いつまでも大切な人が亡くなったことに対してクヨクヨしないで、命ある限り、この世界をしっかり生きて、いつか無事に卒業することが大切なのかもしれません。 そのためにも大切なことは、故人からの「精神的な自立」です。未だ「もし生きていたら、一緒に旅行に行きたかったなぁ」「こんな話をしたかったなぁ」なんて考えてしまうものですが、それはそうとして、いなくても元気に生きていくことは大切なのです。 「死」というのは、誰にでも必ず訪れます。だから、「大切な人の死」を通して、死は意外と身近にあるものなのだと気づかされるものです。もちろん、いずれ私たちも。 「自分の死」を考えることで、「生きているときにすべきこと」も見えてくるところはあるでしょう。それは、どんなものがあるのでしょうか。次のページで紹介します。