多くの謎が残る無人島『蛇島』ガソリン貯蔵庫に使われていたトンネル...なぜここに?何のために? 観光資源としての可能性を探る「蛇島という戦争遺跡をみんなで知っていくのも一つの方法」
1920年に作成された資料。当初はガソリン貯蔵庫として島を斜めに横断するようにトンネルを3本作る計画でした。 (毛利聡准教授)「この図面の基となった蛇島を測量した時期は大正4年(1915年)。大正4年の頃から蛇島を何らかの形で海軍が利用しようとしていた形跡は見られるのかなと」 しかし、実際に建設されたトンネルは4本。なぜ当初の案から計画が変更されたのかを示す資料は見つかっていないといいます。
ガソリンの貯蔵目的は何だったのか…今も多くの謎が残る
毛利准教授は元々コンクリートの耐久性などについての研究が専門。蛇島のトンネルは建築物としての価値も高く、どのようにして建設されたかを調べるため、実地調査も行ってきました。 (毛利聡准教授)「これも人工的に盛り土して、外から見えないようにしているんだと思います。(Q補給が見つからないように?爆撃されないように?)だとは思うんですけれども、ガソリンなので船の燃料にはならなくて(おそらく)航空機用なんですけど、航空機をこの舞鶴湾で運用していたような証言や資料があまりない。ガソリンをなぜここにおいて何に使っていたのかよくわかっていないです」 戦後1948年の資料。図面からは1つのトンネルにつき5つのガソリンタンクが保管されていたことが読み取れます。しかし、そのガソリンは何に使う目的だったのか、わかっていません。 ガソリンを貯蔵する目的をはじめ、なぜ貯蔵庫をトンネルの形で作ったのか、謎が多く残る蛇島。実際に足を踏み入れ、調べ・知ることこそが、レガシーの魅力なのかもしれません。
終戦後の蛇島で大根を育てていた人に話を聞いた
終戦を迎えガソリン庫としての役割を終えた当時の蛇島を知る人がいます。蛇島の対岸にある佐波賀集落に住む森本晁生さん(88)です。 (森本晁生さん)「私らが行った頃はまだ建物の跡でガラスや大きな石がゴロゴロしていました。(南の)海側に高さ2mほどの土手があって、その土がよかったのでそれを引っ張って畑にして。結構大根は採れていましたよ」 地元の青年会に所属していた中学時代の1950年ごろ、泳いで渡った蛇島で育てていたというのが舞鶴発祥の京野菜「佐波賀だいこん」です。