未完成品に息子の遺志 旧ビッグモーター訴訟
机の上にレザーの定期入れを見つけた。生地をつなぎ合わせただけで、完成にはほど遠い。 「あいつ、本当に作っていたんだな」 静岡県掛川市の会社員、井川智義さん(59)は胸が締め付けられた。未完成であることが、作り手の無念さを表しているように思えてならない。とても見ていられず、妻の真弓さん(60)に言った。「捨ててくれ」 ◇ おととしの9月24日は、32回目の結婚記念日だった。深夜、病院からの電話で起こされた。「息子さんが事故で運ばれた。家族で来てください」。真弓さんと2人で駆けつけると、翔馬さんの体はすでに冷たくなっていた。 コンビニから車で自宅に帰る途中、カーブを曲がりきれなかったという。29歳。「パワハラのせいで会社を辞めていなければ、こんなことにならなかったのに……」。智義さんは、そう考えずにはいられなかった。 ◇ 翔馬さんは大学卒業後、静岡県内の中古車販売会社に就職した。大学では経営を学び、「販売」に興味を持った。同じ業種の旧ビッグモーターに転職すると、2019年6月から岐阜県各務原市の店舗で店長を任された。「店長に昇格しました!」。LINEでメッセージを受け取った智義さんも、うれしかった。 ところが、翔馬さんは体調を崩し、うつ病と診断される。21年6月には退職を余儀なくされた。静岡の実家に戻ってきた後は、自室に籠もりがちで元気がなかった。「上司にひどい言われ方をした」。翔馬さんは、ぽつりと漏らした。 ◇ 翔馬さんは、社会保険労務士に相談して労働審判を申し立てたが、1回目の期日に会社側は出席しなかった。智義さんは、帰宅した翔馬さんが悔し涙を流しているのを見て、「なんて会社だ」と憤りを覚えた。 失望した翔馬さんは22年8月、旧ビッグモーターを相手取って岐阜地裁に民事訴訟を起こす。パワハラで精神的苦痛を受けたなどとして、慰謝料など約2100万円の支払いを求めた。 ◇ 翔馬さんが事故で亡くなったのは、提訴から約1か月後のことだった。悲しみの中、智義さんは初めて裁判記録を目にする。 「日本語もまともにしゃべられないなら店長職務まりませんが」 「会話すら成立しないなら店長下りろタコが」 翔馬さんが会社でどんな扱いを受けていたのか知った。「はっきり白黒つけましょう」。夫妻で訴訟を引き継ぐ意思を弁護士に伝えた。 判決は今年8月8日に言い渡された。裁判所は「指導の域を超える暴言でパワハラにあたる」と認定。旧ビッグモーターに対し、慰謝料として55万円を賠償するよう命じた。一方、パワハラが原因でうつ病を発症したという因果関係については否定された。 ◇ 翔馬さんの死後、旧ビッグモーターの様々な不祥事が明るみに出た。だが、事故死の責任が会社にあるわけではない。だからこそ、智義さんはやり場のない感情にさいなまれた。 裁判が終わった今、目の前にあるのは、翔馬さんが残した作りかけの定期入れだ。2年前の葬儀後、翔馬さんの部屋で見つけた時は「捨ててくれ」と言ったが、妻の真弓さんが大切に保管していた。 思えば、実家に戻ってきた翔馬さんに自分の趣味のレザークラフトを勧めてみたのは、智義さん自身だった。ある日、「定期入れを作りたい」と言われ、道具一式を貸したのだ。 仕事の後や休日、生地に糸を縫い付け、クリームをつけた布で磨いてなめらかにしていく。時間をかけて良いものに仕上げる過程がいい。 「これからも続けてよ。応援してるから」。智義さんが未完成の定期入れから新たに感じ取ったのは、無念さではなく、自分らしく幸せな人生を歩んでほしいという翔馬さん からの願いだった。
【取材後記】
判決の時に智義さんの思いを記事にできず、心残りがあった。改めて取材を申し込むと、定期入れのほかに青いカードケースを持参してくれた。こちらも翔馬さんが製作中だったもので、定期入れの後に見つかったという。より完成に近く、智義さんは「ここまでできるようになったんだな」とうれしそうだった。 最初は見るのもつらかった定期入れが、2年の時を経て、「自分と息子をつないでくれるもの」へと変わった。悲しみや悔しさを抱えながらも、前に進もうとする智義さんを私も応援したい。(杉本奏 24歳)