没後39年 世界でカバーされた「上を向いて歩こう」 坂本九さんの“オリジナル版”がベストだと思う理由
坂本さんが歌ったのは19歳のとき
乗客乗員520人の命が奪われた日航ジャンボ機墜落事故が起きたのは1985年8月12日。あれから38年が過ぎた。犠牲者の中には子供から大人にまで広く愛されていた坂本九さん(没年43歳)も含まれていた。世界的ヒット曲「上を向いて歩こう」(1961年)を本人の歌唱で聴くことが出来なくなってしまった。【高堀冬彦/放送コラムニスト、ジャーナリスト】 【写真】「息を飲む光景でした」 当時、現場に派遣された自衛官が振り返る ***
日航機が行方不明になったことをテレビで真っ先に伝えたのはTBSだった。「クイズ100人に聞きました」を放送していた1985年8月12日午後7時20分ごろ、たった一行「日航機がレーダーから消えた」というテロップを流した。 直後に報道特別番組を始めたのはフジテレビである。NHKより早かった。MCは、当時は局アナだった露木茂氏(83)。空前のニュースだが、いつも通り落ち着いた口調だった。 ところが午後8時ごろ、顔色が変わり、声を上ずらせる。坂本さんも搭乗していたことが分かったからである。 「大変なことになりました……」 おそらく日本中の人が言葉を失ったはずだ。あの時代を生きていた人なら分かるはずだが、坂本さんの人気は圧倒的だった。 歌手として「見上げてごらん夜の星を」(1963年)、「明日があるさ」(同)など数々のヒット曲がある一方、TBS「フジ三太郎」(1968年)など多くのコメディドラマに主演。進行役を務めたNHKの連続人形劇「新八犬伝」(1973年)は子供たちを熱狂させた。 坂本さんは今で言うマルチタレントだったわけだが、本業はもちろん歌手。代表曲が「上を向いて歩こう」であることに異論を挟む人はいないだろう。 国内での売り上げは1961年の発売から5年間で80万枚に達した。意外と少ないようだが、ステレオやレコードプレイヤーが高価だったせいもあるだろう。まだ日本は貧しかった。 「上を向いて――」が東芝音楽工業(のちの東芝EMI、EMIミュージック・ジャパン)から発売されたのは1961年10月15日。お披露目されたのは同7月21日である。都内で行われた中村八大さん(故人)のリサイタルで坂本さんが歌った。中村さんはこの歌の作曲者である。 中村さんは早大時代からプロのジャズピアニストとして活躍し、作曲家としては「遠くへ行きたい」(1962年)「こんにちは赤ちゃん」(1963年)など日本のスタンダードナンバーを何曲もつくった人。天才の名をほしいままにした。 一方、坂本さんは19歳だった。それまではダニー飯田とパラダイス・キングのボーカルで、洋楽に日本語の詞を付けた「ステキなタイミング」(1960年)などをスマッシュヒットさせた。11枚目のシングルで初のソロ作品が「上を向いて――」だった。 なぜ、坂本さんが「上を向いて――」を歌うことになったかというと、坂本さんの所属事務所が強く望んだから、また、NHKのショー番組「夢であいましょう」(1961年)に坂本さんがレギュラー出演していたからでもある。中村さんと作詞者の永六輔さん(故人)はこの番組に歌を提供していた。 レコーディングのプロデューサーは当時の東芝のエースで、のちに欧陽菲菲(74)の「雨の御堂筋」(1971年)などを手掛けた草野浩二氏(86)だった。ベンチャーズ・サウンドを歌謡曲に採り入れた人で、洋楽と邦楽をミックスさせた先駆者だった。洋楽の香りも漂わせる「上を向いて――」の担当者にうってつけだった。