伝説のインフレファイター、ボルカ―元FRB議長は、グローバルスタンダード「物価目標2%」の絶対視を危険視していた
「バリバリの金融実務家であった私が、わからないことがあれば一番頼りにし、最初に意見を求めたのが山本謙三・元日銀理事です。安倍元総理が、もし彼がブレインに選んでいたら、今の日本経済はバラ色だったに違いない」 元モルガン銀行・日本代表兼東京支店長で伝説のトレーダーと呼ばれる藤巻健史氏が心酔するのが元日銀理事の山本謙三氏。同氏は、11年にわたって行われた「異次元緩和」は激烈な副作用がある金融政策で、その「出口」には途方もない困難と痛みが待ち受けていると警鐘を鳴らす。史上空前の経済実験と呼ばれる「異次元緩和」は、物価目標2%達成への異例のこだわりから始まった。なぜ物価は上がり続けなければいけないのか? そして異例の経済政策のツケを、私たちはどのような形で払うことになるのか? ※本記事は山本謙三『異次元緩和の罪と罰』から抜粋・編集したものです。
ボルカーの執念とラジャンの懸念
米国のFRBを「2%の平均物価目標」導入に駆り立てたのは、物価指数がマイナスに陥ることへの懸念だった。「日本経済の停滞の原因は、長引くデフレにある」との見方が広く信じられてきたために、FRBもデフレ回避への断固たる姿勢を示そうとした。 しかし、物価指数のわずかなマイナスを「デフレ」と強調し、経済停滞の元凶とする議論は実態から遊離していた。先に述べたように、異次元緩和前の10年間と異次元緩和開始後の10年間では、実質GDP成長率はほぼ同じだった。物価上昇率の小幅のマイナスと小幅のプラスは実体経済に大きな違いをもたらしていない。 米国内にも、2%の物価目標を疑問視し、中央銀行はもっと金融システムの安定に目配りすべきと主張する人々がいた。典型は、2019年に亡くなったボルカー元FRB議長だ。 同元議長は、人々が経済計画を安心して立てられる状態を重視し、物価の安定とは「『名目』と『実質』がおおむね等しい状態」をいい、望ましい物価上昇率は基本的に0%程度との考えを主張していた。『ボルカー回顧録──健全な金融、良き政府を求めて』(ポール・A・ボルカー、クリスティン・ハーパー共著〈日本経済新聞出版、2019年〉、以下『ボルカー回顧録』)からの引用を含め、その見解をまとめてみよう。 第1に、物価の動きに振れがあるのは当然だが、だからといって許容幅の上限が2%であるとか2%が物価の目標であるといった議論は、受け入れがたい。 「『ほんの少しのインフレがあるぐらいの経済状態が望ましい』との学説は多くの研究や事実関係が間違いだと示してきたにもかかわらず、いつまでも消えずに残り、現在は、デフレーションへの危惧という形で繰り広げられている」(『ボルカー回顧録』、一部著者要約)。 第2に、いったん2%目標を許容すれば、いずれは目標値を3%、4%に引き上げよとの議論が起き、経済のリスクを高める。 「インフレで打撃を受けた国が、安定を取り戻すために闘う。ところが勝利が視野に入ってくると、当局は経済成長を刺激しようと手を緩めて『ほんの少しのインフレ』を容認する。そして結局、以上の過程(著者注:生産性向上を伴わない物価と賃金の上昇が生む景気後退〈スタグフレーション〉の過程)をやり直すことになる」(同上)。 第3に、「デフレは金融システムの機能停止という重大な局面に陥った時、脅威として突きつけられる。低成長と繰り返し発生する景気後退は、金融システム全体を揺るがす混乱を伴っていないのであれば、(中略)デフレのリスクをもたらさない」(同上)。 こうしたボルカー元議長と類似の主張を行ったのが、2013年から3年間インド準備銀行(中央銀行)総裁を務めたラジャン教授だった。同氏は2023年3月初めのIMF(国際通貨基金)季刊誌への寄稿の中で、量的緩和政策の危うさを指摘し、以下のような警告を発している。 第1に、量的緩和政策は、実体経済への効果に疑問があるうえに、(社債等の)クレジット市場や資産価格、流動性にゆがみをもたらしている。また、出口の難しい政策である。 第2に、デフレスパイラルに陥らない限りは、中央銀行は低インフレを過度に心配すべきではない。日本の成長率や労働生産性の鈍化も、長期にわたる低インフレが原因ではなかった。 第3に、中央銀行は、金融システムの安定をもっと重視する必要がある。低インフレへの対応(としての量的緩和)が、資産価格の高騰やレバレッジの拡大をもたらし、金融システムの不安定を引き起こす可能性を高めている。 第4に、中央銀行による介入は少ない方が、現在我々がいる高インフレ、高レバレッジ、低成長の世界よりも、おそらく良好な結果をもたらすだろう。 ボルカー、ラジャン両氏は、それぞれ米国、インドで中央銀行の総裁職を担い、物価の安定と金融システムの健全性確保のために、時の政治と真っ向から対峙(たい じ)した人物である。その両者が、物価目標2%に疑問を投げかけた。 2人の議論は、(1)「物価目標実現のため」として行う大規模金融緩和が、金融システムにもたらす悪影響を強く意識していること、(2)金融緩和と財政拡大に偏りがちな「政治の慣性」を危惧していることに特徴がある。 大胆な金融緩和に伴う市場機能の低下、財政規律の緩み、金融システムの弱体化といった問題は、先進国中央銀行に共通の悩みである。「物価2%はグローバルスタンダード」というマジックワードに、いつまでも引きずられてはならない。中央銀行にとっては、金融システム不安こそが「デフレにつながる脅威」であるとの警告に、もっと耳を傾ける必要がある。