「日本兵1万人」が行方不明にもかかわらず、戦後初の遺骨収集は「たったの3時間」だった
なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が9刷決定と話題だ。 【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。
遺骨行方不明の要因4「収集は3時間で幕引き」
1953年度報告書の表題は「南方八島の遺骨収集及び慰霊に関する派遣団報告書」。1952年の派遣は遺骨の状況を確認する「調査団」だったのに対し、1953年度は遺骨収集を目的とする初の「収集団」だった。収集団は遺族代表や宗教関係者、作業員らで構成し、運輸省(当時)航海訓練所の練習船「日本丸」で1953年1月31日に東京港を出発、サイパンやグアム、ペリリュー、硫黄島など米国施政下の8島に順次上陸して遺骨を収容し、3月19日に帰着した。 各島での滞在日数は極めて限定的だった。8島のうち最後だった硫黄島は3月12日のみ。日誌によると、収集団は午前9時に上陸後、慰霊碑の建立準備などに取り組み、遺骨収集の作業を始めたのは昼食後だ。〈洞窟内で収集した遺骨は午後三時迄にこの場に運搬し引き続き火葬することに致しました〉とある。昼食を終えたのが正午ごろだったとすれば、戦後初の遺骨収集はたったの3時間だったということになる。 前年の調査団は1952年の報告書で〈本格的遺骨収集の作業は、一日も早く行うべきである〉と提言していた。〈(島のジャングル化で)日本軍当時の旧道が全く跡形ないのは勿論のこと、その後米軍が掘開した道路も、交通に利用していないものは、殆んど徒歩で辿ることさえ出来ない程度となつている〉という実情が理由だった。しかし、1年後に実現した初の遺骨収集は、その提言が全く反映されない、極めて限定的なものだった。 背景にあったのは、その半年前の1952年10月23日の「閣議了解」だった。政府はこの閣議了解で、遺骨収集は「象徴遺骨」方針によって行うと定めた。これは、現地に残るすべての遺骨を収容しようとするのではなく、一部の遺骨を本土に持ち帰ることでその地域全体の遺骨収集を終了したとみなす方針だった。「象徴遺骨」との概念が生まれた時代的事情は後に記す。 この方針に従って収集団が捜索した収集現場は1ヵ所のみ。〈通称地獄谷洞窟〉だった。結果、収容したのは〈約三十体〉だった。硫黄島戦から8年。収集団員は一定程度しか風化していない遺骨も目撃している。〈頭髪のそのまゝついた頭蓋骨が数個ありました〉。
酒井 聡平(北海道新聞記者)