シリア×イラン×ヒズボラ「シーア派の弧」破綻後の地政学図
「イスラエルに死を」の絆
ヒズボラやシリア、イラクなど親イラン勢力から成る「抵抗の枢軸」はドミノ倒しのように崩壊している。イランはシリアとレバノンに対する確固たる支配を間違いなく失った。 そもそも、イラン、シリア、ヒズボラの関係を強固なものにしたのは、シリアで内戦が勃発したことだった。 「アラブの春」はシリアにも波及し、反アサドの抗議運動が首都ダマスカスなど主要都市に広がった。アサド政権の応戦は残忍だった。 抗議者に向けて発砲するよう政府軍の兵士に命じ、何千何万という男性や少年を拘束し拷問した。 国際社会は激しく非難した。しかし、アサドはイランとヒズボラの支援を受けて政権を維持してきた。ヒズボラの戦闘員に加えて、イラン革命防衛隊もアサドに助言し、政府軍と共にシリア国民と戦った。 これはイランとその代理勢力のヒズボラにとって、地域の「イラン化」、すなわちイラン革命のイデオロギーの拡大と、シリアとレバノンのシーア派国家化を促進するものとなった。 シリアはイスラム教スンニ派が多数を占め、アサド一族の下で少数派のシーア派系アラウィ派が統治してきた。ヒズボラはシーア派のテロ組織だ。 パレスチナ問題も三者の関係を強化する要因となった。イランが79年のイスラム革命以降、掲げてきた「イスラエルに死を」という信条は、アサド政権とヒズボラの戦闘員が共有する感情でもある。 アサドのシリア、イラン、ヒズボラを結び付けたものは、急進主義と、地域を統治するという願望だけではない。彼らは経済的利益も共有しており、違法物資の密売で利益を得ている。 特に、アサドとイランの支援によりシリアで大量に生産されているカプタゴンは、国際社会の制裁が厳しくなったアサド政権にとって重要な収入源だった。 カプタゴンはヒズボラが支配するレバノンの空港と海港を通じて湾岸諸国に広まった。 2023年にシリアがアラブ連盟への復帰を果たした際、アサドは地域でカプタゴンの密輸先をコントロールすることと引き換えに、サウジアラビアに圧力をかけた。 【翻弄され続けたレバノン】 レバノンでヒズボラが頓挫し、シリアでアサド政権が崩壊したことで、地域の「イラン化」は少なくとも足踏み状態となった。しかし、アサド一族による54年間の独裁は、隣国レバノンにも長い破壊の足跡を残した。 1976年6月、シリアはレバノン内戦を終結させるためとして2万5000人以上の兵士を派遣。一時的な駐留は30年以上に及んだ。 90年に内戦が終結した頃には、シリアはレバノンの領土と内政、外政を完全に支配していた。行方不明や違法な拘束、拷問、政界の要人やジャーナリストの暗殺など深刻な人権侵害が報告された。 2005年2月、レバノンにおけるシリアの覇権に公然と反対していたラフィク・ハリリ首相が暗殺された。これにはアサドやシリア高官が深く関与したとされている。 ハリリの暗殺は「杉の革命」の引き金となり、数十万人のレバノン市民が抗議デモを繰り広げ、シリア軍は撤退を余儀なくされた。しかし、シリア政権はヒズボラを通じてレバノンの政治に干渉し続けた。 ヒズボラは政治・軍事組織へと発展し、政府にも強い影響力を持つようになり、シリアとイランの利益に反する決定をことごとく阻止してきた。 例えば、シリア政権を支持しない大統領候補を認めず、レバノンは長期にわたり大統領不在という政治的空白が一度ならずあった。 ヒズボラは、レバノン国内ではイランの庇護を受けて活動を続けられるかもしれないが、アサドの失脚で重要な補給ルートを断たれる。シリアがいなければ、ヒズボラはイランの戦闘員や武器を迅速に入手できない。 そして、レバノンとイスラエルの停戦合意は、ヒズボラの武装解除を求める国連決議にレバノンが従うことを再確認するものだ。 新しいシリアがどのような国になるかは分からないが、少なくとも今は、シリアとレバノンの国民は喜んでいいだろう。 数十年にわたる残忍な支配とヒズボラによる虐待に苦しんできた彼らにとって、多大な苦痛を与えてきた張本人は去った。 The Conversation