訳出スピードは「三割遅れもザラ」...それでも筆者が『スティーブ・ジョブズ』の訳を通常の二倍速で成し遂げられた「舞台裏」
小説家、漫画家、編集者、出版業界の「仕事の舞台裏」は数あれど、意外と知られていない出版翻訳者の仕事を大公開。『スティーブ・ジョブズ』の世界同時発売を手掛けた超売れっ子は、刊行までわずか4ヵ月という無理ゲーにどうこたえたのか? 『「スティーブ・ジョブズ」翻訳者の仕事部屋』(井口耕二著)から内容を抜粋してお届けする。 【漫画】頑張っても結果が出ない…「仕事のできない残念な人」が陥るNG習慣 『「スティーブ・ジョブズ」翻訳者の仕事部屋』連載第5回 『原稿は「納期に来ない」かつ「機密書類」...「日本の一流翻訳家」がアメリカ側から受けた「酷過ぎる仕打ち」』より続く
訳出スピードは「著者との相性」で決まる?
訳出のペースは翻訳者によって違いますが、自分ならたいがいこのくらいという目安があります。また、後半の訳出は、たいがいスピードアップします。 ただし「たいがい」は、たいがいでしかありません。訳出のスピードが予想どおりにならないというのもよくある話です。 訳出のスピードというのは狙えるものではなく、結果として出てくるものであり、やってみたら想像以上に時間がかかったりするのです。『スティーブ・ジョブズ』も、章が移ったとたん、訳出のスピードが3割も上がったり下がったりなんてことがありました。 たとえば、基本的に事実が並べられているのか心情的な話が多いのかでスピードが大きく変化します。事実が多ければさくさく進みがちですが、心情的な話は読み取りにも表現にも時間がかかります。文単位でもややこしいというか手間のかかるものがときどき出てきます。 平均して1時間500ワードくらい進んでいるところで、10ワードくらいの1文に10分も20分もかかるなどざらです。
「私」でなければできない
著者との相性もあります。訳出しやすい人としにくい人がいるのです。訳文の文体は原著の文体に合わせて調整するわけですが、それが得意な文体なら楽ですし、不得意な文体ならどうしても時間がかかってしまいます。つまり、私にとって訳しにくい人でもほかの人には訳しやすいかもしれません。 だから「相性」です。 ともかく、その結果、内容から予想したスピードと3割くらいずれるなんてざらにあります。 ハーバード・ロースクールのジョナサン・ジットレイン教授がネット犯罪について書いた「ウェブ退化論」、『インターネットが死ぬ日 そして、それを避けるには』(ハヤカワ新書juice、以下『インターネットが死ぬ日』)なんて、全編、予想の6割くらいしかスピードが出なくて、苦労もすれば予定から大きく遅れる結果にもなりました。 今回は伝記物だし、内容的にかなり親しんだものだし、時間的制約がきついしで、もともとの想定スピード自体、『インターネットが死ぬ日』などの3割増しくらいになっていました(つまり、『インターネットが死ぬ日』で実際に出たスピードの2倍で訳出していかないとまにあわない)。どこをどう見てもぎりぎりであり、やってみたらそんなにスピードが出ませんでしたという事態は十分に考えられました。